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2008年07月08日/ 沖縄の詩誌

1999 第6号

 「1999」第6号*が、5月末付けで出ました。表紙が灰色になっていて、少し趣きが変わっています。ちょっと不気味な感じの人形が、こちらを見ています。

 53ページと薄めで、読みやすい量です。同人による詩が8編(2編×4人)で、そのうち伊波泰志さんの特集が組まれています。「寝転がる人々」が面白い。

散歩をしていたら広い
歩道の路上男女が数十
人思い思いの格好で寝
転がっていて、先に進
みづらくて一番近くに
いた若い女に「これは
どうしたんですか」と
尋ねると「流行ってん
の」と言い、隣で寝転
(以下略、「寝転がる人々」より)

  10字の行が続いたかと思えば、真ん中のほうでアーチが現れます。これまでこの詩誌に載っていた伊波さんの詩のなかでは、新しい試みで(確か・・・)、形式、内容ともに新鮮でした。「ロンサム・キング」もいいなと思ったのですが、タイトルが安易な感じなのが残念。内容の重さとバランスをとろうとした軽さなのかな、という気はしましたが、やはりなぜ英語なのかが伝わってきませんでした(過去の「リザード」「サヴァイブ」「ヤングメン」なども)。

 松永朋哉さんの詩を読んで思うのは、ありふれた言葉がありふれたもののままでいて残念だということ。「運命論者」「脱出ゲーム」の2作品から、作者の感じている閉塞感は伝わってくるのですが、「未来」「希望」「運命」「挫折」「苦悩」「悲しみ」「試練」「理不尽」「罪」「楽園」「神」(すべて「運命論者」より)などの言葉が、あまりにも直接的なせいか、よそよそしく感じられました。ただ、「希望はとうの昔に消えたから/私は運命を信じた」というところは作者の世界だと思ったので、そこをもっと見たい気がします。

 宮城さんの2作品「雪」「川」は、題も示すとおり、短くたたずんだ詩。雪は「見えない」し、重さもないけど「とけな」くて、おまけに「鼓膜を刺激」し、「こころとからだを押しつぶ」し、「たましいを押しつぶす」。青い空と緑の芝生の風景に「無機質な亀裂」、つまり「金網」が入ることが、その雪を降らせているのかもしれません。

 内間武さんは、タイトルのつけ方が秀逸。タイトルの言葉自体は、「いじめ」「借金」と普通ですが、対応する詩の内容と絶妙な距離を保っているのです。以下は、「いじめ」の全部引用です。

巨大な太陽に照らされ
真っ赤に焼けたアスファルトから滲んでいる
陽炎で歪む世界
地球の真ん中にある意思はもがき
何とか這い出る場所を探している
徐々に世界が震える
小さな揺れに気づく者はいない
誰かがそれに気づいた時は手遅れで
アスファルトを突き破り噴火したマグマが
この世界を飲み込んでいった

 それから、新しい試みとして、「つぎの琉球詩壇」と題された投稿欄が設けられています。「1999Web」の投稿掲示板に投稿された詩のなかから掲載作が選ばれ、宮城さんが評しています。氏の「誉める技術」には、学ぶところ多し。

 長くなってしまいました。あいかわらず文句も多くてごめんなさい。これからも楽しみにしています。

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* 寄贈していただきました。この場を借りて感謝申し上げます。  


Posted by あゆ at 07:00Comments(4)

2008年05月24日/ 沖縄の詩誌

1999 第5号 & 第4回おきなわ文学賞の募集要項

私の口が語るのは
どこかで聞いた どこかのおはなし

(大城望美 「世代のおわりに」から)


 何事もなかったかのように素面に戻って、「1999 Vol.5」のなかで印象深かった詩の紹介と感想をほんの少し。

 大城望美さん「世代のおわりに」は、おきなわ文学賞特集作品のひとつ。大城さんは、「受験抄」(この詩も同号に載っています)で佳作を受賞していて、「世代のおわりに」は新作です。

 言葉の主は、どうやら沖縄から出て別の土地に来たらしい。読んでいると、武蔵野の名が。私が東京に来て最初に住んだのも武蔵野でした。なんだか昔の自分を見つけたみたいでした。私は、彼女のような、命ある言葉を持ってはいませんでしたが。

の~まんじゅう


 そして、私も今日1999のサイトで知ったのですが、第4回おきなわ文学賞の作品募集が始まりました。募集要項はこちら。

http://okicul-pr.jp/mov/2008/05/post_27.html  


Posted by あゆ at 23:11Comments(0)

2006年10月19日/ 沖縄の詩誌

1999 第2号

 東京はすっかり涼しくなりました。さて、年初に予告してはいましたが、やはり開店休業状態に突入しています。どうかいましばらく(2か月くらい)・・・・・・!

 頂いてからだいぶ経ってしまいました、詩誌「1999」第2号の感想です。今回はピンポイントで。

クマノミ

「1999」第2号では、2004年8月13日に起きた沖国大での米軍ヘリ墜落事故を特集している。事故についての報告(事故そのものについて、その後の反応、問題点、これまでの墜落事件など多角的)、同人ひとりひとりの所感、特集作品という内容。

 所感では、普天間基地の跡地利用についても、それぞれの意見が出されている。意見は作品ではないので、内容についてはここではコメントしない。意見の出され方についてだけ言えば、かなり自由で、それまで公式に考えられていること(たとえばここなどで)は考慮されていないようだ。「1999」は詩誌であって、議論をする場ではないので、そういうことは必要ないかもしれない。でも、少し物足りなく感じたのも事実だった。ともあれ、普天間基地のそばで学生生活を送った人々の所感ということでは貴重で、色々考えさせられた。

 編集後記には、「ヘリ事故特集をするために『1999』が立ち上がったと言っても過言ではない」とある。同人のひとりは、事故当時、現場のわずか50メートル先にいたとのこと。当時の生々しいやりとりの報告に、胸を衝かれる思いがした。

 特集作品でとりわけ印象に残ったのは、伊波泰志「2004年8月13日」、内間武「沖縄」、トーマ・ヒロコ「背中」。
 
 伊波作品は、言葉に温度差があると感じる。つまり、自分の言葉とそうでない言葉があるように思えた。たとえば次のフレーズ。

あの日の涙 止まらない戦慄 逆流する血
迷彩服の男が宅配ピザの空き箱に詰め込んで焼却炉に投げ捨てた
あの日から飛ばし続けた兵器亡き平和の願い
野良犬が拾い食いして吐き出していた

 抽象的で無難な1行目、3行目に比べて、具体的で強烈な2行目、4行目で伊波の本領が発揮されているのではないかと思う。

 内間武「沖縄」は、「広大な湖の中にある一点の淀みは/拡散することなくそこに在り続ける」と、沖縄を「淀み」「淀んでいる意思」に重ねる。「湖の底で揺れている意思は/誰かに届く前にかき消されて」というフレーズが、伊波作品の「幾多の感情 幾許の願いが/たどり着くべき場所へたどり着けないのは」というフレーズ(上に引用した4行と同じことで、ここは余計だと思ったが)とつながっている。絵を描くように書きながらも、沖縄を一貫して動的にとらえているところに惹かれた。

 トーマ・ヒロコ「背中」からは、貘の「会話」を連想した。「都会の男」との会話が浮き彫りにする、沖縄に対する認識のギャップ。「私は背筋を伸ばして自分の庭を闊歩したいのだ」というフレーズが、トーマのエッセイ集のタイトル「裏通りを闊歩」と呼応している。

 特集作品以外で印象的だったのは、伊波「バッテリー・ドーター」。「あなた」は電動式で、親から電池を与えられながら育つ。途中で充電式に改造され、「飼い犬みたいな生活」に。親になった者としては、なんだとこの、と言いたくなるような「若さ」を感じるが、それはこの詩の語り手も意識しているのがわかる。最後に、「あなたの目をにじませるものが何なのか/電動式のあなたにはわからなかった」とあるからだ。そういえば、特集作品(「2004年8月13日」)の方に出てくる「神」も電動式だ。

さかな

 読んでいるあいだにも、感想を書いているときにも、記録と記憶と記憶を残すことについて、いろいろな思いが巡りました。そのことについては、機会があればいずれ書きたいと思います。

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1999 Vol. 2 (1999同人)
2005年10月31日刊行、A5版 90頁
入手: メールで問い合わせるといいと思います。
⇒ 宮城隆尋伊波泰志  


Posted by あゆ at 13:07Comments(5)

2006年02月28日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/企画評(2)―詩時評/現役の小部屋/まとめ

 伊波泰志による詩時評「1981の所感 第1回」には、沖国大文芸部員の詩集上梓、東風平恵典氏の『嵐のまえぶれ』評、大城貞俊氏の『或いは取るに足りない小さな物語』評、沖縄県高校文芸誌コンクールについてといった内容が盛り込まれている。タイトルは、筆者が1981年生まれだからか。第2号の前号批評では、宮城隆尋が〈沖国大文芸部の活動よりは東風平、大城両氏の作品に対する評を前面に出したほうが、対外的な印象としてはよかったと思う〉と述べている。確かに、文芸部を「内輪」と意識しないで全作品を等しく時系列順に評しているところが、ベテランの目には生意気だと映る恐れもあるかもしれない。私は同世代だからか、「若者らしくていいのでは」とかえって好感を持った。世代をつなぐというこの詩誌の目的に照らせば、高校文芸誌コンクールについての記述ももう少しあってもいいかと思った(個人的に興味もある)。

現役の小部屋」には、現在部長を務める燎本龍夜が、詩「ルノワールの御空」と部近況「さいきんのぶんげいぶ」を寄せている。

ルノワールの御空」は、夕焼けの空を〈赤錆が山へと崩れていく〉と捉えているところが、不思議な感覚だと思った。そして、小惑星をひっかいて爪の間に詰めながら、空の色をバリバリと剥がしていき、〈僕〉は宇宙の果てを覗く。〈筆からポタリと垂れ落ちた黒い点の僕〉という句からもわかるように、世界を絵画に喩えて夢想を楽しんだ作品だ。〈僕ら〉の存在する〈楽園〉は、〈フロンティア〉だという。〈虫よりもちっぽけ〉でも、宇宙の果てまで見ることができる〈僕ら〉が世界を開拓しているという認識が表れている。2連5行目の〈知ぬ〉は〈知らぬ〉か。あと、〈混入〉が「され」てしまっている。

さいきんのぶんげいぶ」には、(という名の燎本日記)と副題がついており、これが少し内輪の感覚を強めてしまったかと思う。個人的には問題ないと思うけれど。内容としては、普段の文芸部の様子や合評会の様子がバランスよく伝えられていて、私は全く関係ない人間だが読んでいて面白かった。第2号では省かれているが(編集後記でも「最大のミス」だと触れられている)、続いてほしいコーナーだ。

 全体として、目的意識のはっきりした良い詩誌だと思う。それでいて真面目すぎず、どこか肩の力が抜けていて、遊び心も感じられる。トーマ・ヒロコの表紙画からしてそうだ。「何を描こうかさっぱり思いつかずにベランダを見て描いたもの」(本人談)らしく、自然体。作品に関してつけ足すと、言い切ってしまいたい誘惑に駆られるのはわかるが、もっと読者を信頼してもいいと思う。それはとても勇気の要ることかもしれない。でも、そうすればもっともっと面白くなると思った。同世代の一読者として、これからも期待したい。
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 創刊号ということで、歯止めをかけずに書いたら大変なことになりました。お付き合いくださってありがとうございます。また、作者の方々からも直々にコメントをいただけたのは、とてもうれしく励みになりました。改めて、ありがとうございました。  


Posted by あゆ at 20:39Comments(5)

2006年02月27日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/企画評(1)―同人特集 トーマ・ヒロコ

 同人特集の初回はトーマ・ヒロコ。初の詩集『ラジオをつけない日』の刊行記念ということで、同詩集から「一号線」を掲載している。そのほか、内間武によるメールインタビュー&エッセイ集『裏通りを闊歩』評、宮城隆尋による『ラジオをつけない日』評という内容。

 詩集からの転載のほかに、書き下ろしの詩もあったら良かったのになと思った。書き下ろしでなくてもいいが、特集なのに1篇では少ないと感じた。メールインタビューは、問いと答えが一対で完結しているので、インタビューというよりはアンケート。紙面の都合上かもしれないが、インタビューらしく聞き手とのやりとりがあると、詩人の新たな一面が見えて面白くなるのでは。質問自体は大切なところを押さえていて、トーマの関心や趣味、創作姿勢を垣間見ることができる。エッセイ集評は急いで書いたか。第2号の前号批評でも、宮城隆尋に不足を指摘されているので、ここでは敢えてコメントしない。詩集評「身辺を客観的に見つめる視線」は、表題作の「ラジオをつけない日」を全部引用し丁寧に評しているほか、いくつかの詩からも引用して考察し、詩集の特徴をよく伝えている。また、〈新たな世代の認識〉の〈さきがけとなる可能性は大きいと考える〉と、この詩集を歴史の中に位置づける。この評は、前回の記事でも触れた「キジムナー通信」の26(終刊)号にも掲載されている。

 最近、同人詩誌「Lyric Jungle」第10号の同人特集を見たせいか、同人特集には写真も付いているといいなとも思った。親しみが湧くので。わがままですね。

※ トーマ・ヒロコ作品だけ評がありませんが、いずれ詩集『ラジオをつけない日』も紹介する予定ですので、その際に書きたいと思います。
 
 トーマ・ヒロコは1982年生まれ。詩集『ラジオをつけない日』(2005)、エッセイ集『裏通りを闊歩』(2005)。
http://www.geocities.jp/tokyogirlfr/  


Posted by あゆ at 07:00Comments(2)

2006年02月26日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(6)―宮城隆尋

 〈俺〉が〈お前〉に延々と発する台詞のみから成る、宮城隆尋「かさぶた」。明らかに米兵による少女暴行事件を連想させる。〈だいたいなあ/そこに居たお前が悪いんじゃねえのか〉と、〈お前〉に責任転嫁する〈俺〉。作者が、断罪の対象そのものに憑依してみせることで、より強力に断罪する効果を生んでいる。読者は〈お前〉と重なる――つまり被害者の立場を強いられることになるので、恐怖や憤りといった「熱い」感情をかき立てられ、他人事ではなく我が身のこととしてこの事件に巻き込まれることを余儀なくされる。淡々と続くおぞましい台詞の裏には、書き手の底知れぬ怒りが潜んでいる。

 他方で、何か足りないとも感じた。おそらく、これよりほかの読み方が難しいということだろうか。上で述べたように、この作品は、解釈や分析といった理性的な行為を要請するものではなく、感情を刺激し、読者を事件の当事者にする。読者が男性か女性かによっても感じ方は違ってくるとは思うが、どちらにせよ読者は限りなく受身の状態になる。詩を読んでいる途中、冷静な判断をする余裕は、読者にはほとんど残されない。状況があまりにリアルなせいもあるか。それゆえ、擬似体験の場としてはかなり高い効果を発揮する作品。タイトルが何故「かさぶた」なのかは、いくら考えてもわからない。

 宮城隆尋の作品中、このような諷刺路線で成功しているものに、昨年終刊した詩誌「キジムナー通信」に掲載された「ゆいまーるツアー」がある(サイト「ごまめのはぎしり」に全部引用されている)。〈ゆいまーるツアー〉の添乗員の案内という形を取るこの詩には、「かさぶた」の持つ負の感情刺激効果に加えて、ブラックな笑いを誘う力がある。笑えるということは、何かを判断できる余裕も残されているということだろう。「かさぶた」と違うのは、批判すべき状況が、これでもかと誇張されて描かれているところ。読者は「あり得ない!」と驚き、笑いつつ、次の瞬間には「でも本当にあり得ないことなのか?」と笑いをひきつらせる。これぞ諷刺だと思う。

 宮城隆尋は1980年生まれ。首里高文芸部、沖国大文芸部を創始、初代部長を務めた。詩集『盲目』(1998) で、1999年に第22回山之口貘賞を最年少受賞(18歳)。2005年に詩誌「1999」を立ち上げる。その他の詩集に『自画像』(1997)、『idol』(2002)。
http://plaza.rakuten.co.jp/mogegegege/  


Posted by あゆ at 07:00Comments(2)

2006年02月25日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(5)―キュウリユキオ

 キュウリユキオ「使者」は、〈彼〉に操られる〈私〉の行動の顛末を、〈私〉が報告するという作品。掌編小説のような楽しさがある。敢えて言葉を省かず、説明的に書いており、行分けも最小限に留められている。正確には5行目の〈こそばゆい私は寝返りをうち不覚にも彼を奥へと追いやってしまった〉以降から、何かのスイッチでも入ったように1行がとても長くなる。もしかしたら、操られる前の〈私〉の発話は、〈午前3時/床に就いた私の耳に/彼は急ぎ足でやってくる/そして土足で入り込む〉の冒頭4行で終わっており、あとは詩そのものも〈彼〉に書かされているのかもしれない。そんな印象を受けた。

 それからこの作品には、現代社会の歪みとでも言えばいいのだろうか、自然な在り方のできなくなった人間の世界が織り込まれていると感じた。例えば、〈この家で妻が一番に可愛がっている観用植物〉〈家庭と隔離された社会で一日働いた私〉といった句、また植物の鉢の飴玉に群がる蟻を駆除する妻の様子など。オチもあるが、もっと続きが読みたい感じだった。観葉植物が〈観用植物〉、〈鑑用植物〉となっているが、意図的なものだろうか。
 
 キュウリユキオは1979年生まれ。ペンネームをキュウリユキコより改名。「1999」第2号より編集を務める。詩集『アカイツノ』(2003)。  


Posted by あゆ at 07:00Comments(2)

2006年02月24日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(4)―宮城信太朗

 宮城信太朗の詩篇「FAMILY TREE」は、10篇の詩がひとつの作品としてまとめられており、創刊号に前半5篇、第2号に後半5篇が掲載されている。ここでは前半の5篇のみを取り上げる。

 「1 超心理 〈電子機器と生物学の共存〉」の〈いつの日か橋の上で/あなたが造ってくれたトンネルの中を/私はあたたかな呼吸を確かに感じながら入った/帰宅したお節介妬きの小さなあなたは/太いコードをつたい静かな休息へとはいった〉という表現からは、私は受精をイメージした。大元のタイトルにつながる〈家族の木が植えられていた〉という句は、一人と一人が出会い、新しい命が生まれることの神秘を表しているように感じた。

 「2 we」では10篇のうちで唯一、〈私達〉でなく〈我々〉と言う。〈我々〉は〈自らの手足を縛りすぎる〉。理性で自らを縛る、人間という存在につきまとう苦しみか。

 「3 θ」は女性言葉で書かれているせいか、母が子に語りかけているイメージを持った。〈社会の一員になるということは 決して/自我を殺すことではないのだから ║/そんなに怖がらなくても大丈夫なの ║〉という言葉が、タイトル「θ(シータ)」の音と呼応しているように思える。無声歯摩擦音であり、英語でいうとthの音で、舌を軽く噛んで息を出す。〈あなた〉は自我の死に瀕しており、舌を噛みたい誘惑に駆られているのかもしれない。そんな危機感に溢れていると感じた。

 〈彼は「そんなのないよ」と/意地悪な笑みをして〉と唐突に切られる「4 彼」は、言いかけの独り言のよう。作品の中の〈私〉の中で世界が完結していて、読者はしばらく傍観者となる。

 珊瑚の産卵が目に浮かぶ「5 おいかけっこ」。珊瑚の幼生やプランクトンなどを、〈〉〈э〉〈〉といった記号で表す発想が自由だ。可愛い。「おいかけっこ」とは、珊瑚の精子と卵子が舞う様子だろうか。〈э あなたの考えた遊びが最高に楽しかった oあなたは天才!〉と、受精の際の感動を、受精する当事者たちの視点(おいかけっこして遊んでいる!)で描くことに成功していると思った。その遊びを考えた〈あなた〉とは、自然の秩序を司る存在、すなわち神と呼ばれるものだろうか。〈みんなの息がいっせいに解き放たれ〉る光景は、「2 we」と対照を成している。

 超現実的な表現や記号の多用で、どれも生半には読ませてくれない。一篇一篇の雰囲気は似ているようだが、描かれる情景はかなり異なり、モンタージュ映像のような作品だと思った。モンタージュの偶発性をどう捉えるかは難しい問題だけれど、この作品は私にとって、伝わってくるところとそうでないところの差が大きかった。読者にとっては偶発的でも、作者にとってはそうではない、そのような境地に近づけばもっと感動が深まる気がした。

 それから細かいことだが、創刊号でも第2号でも目次には「詩篇 FAMILY TREE」としか書かれていないので、そこだけ見ると同じ作品のように見え、一瞬戸惑った。前編・後編であることがわかるようにすると親切かと思った。

 掌編小説「I WAIT FOR HIM AT TOILET」も、男子トイレの個室で便器の上にうずくまる記者志望の〈彼女〉が〈彼〉と出会う、というシュールな作品だ。夢?

※ 「FAMILY TREE」1~5は、この記事でも読めます。作者自身の解説付き。

 宮城信太朗は1985年生まれ。詩集『NEW』(2003)、『NEW LIGHT TREE』(2004)。
http://www.geocities.jp/newlighttree/index.html  


Posted by あゆ at 07:00Comments(8)

2006年02月23日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(3)―内間武

 以下の5作品は内間武。状況設定が上手く、読者に物語を想像させる。「サイレントヴォイス」では、〈腕は確かで、無愛想、不器用/店はまあまあ客入りではあるが・・・〉と孤独なギタリストを描く。〈無愛想〉〈不器用〉という言葉はそれぞれ3回ずつ現れてややくどく、説明的かと感じたが、作り込んだ雰囲気自体は嫌いではない。ただ、結びまで〈聞いちゃいない、誰も・・・〉と、ひとつのことを繰り返した形になっているのが残念だった。客が思い思いの語らいに身をまかせられるのは、誰も耳に留めないものだとしても、ギタリストの音楽が背景にあるからかもしれない。

引きこもり」は、引きこもる〈僕〉のモノローグ。社会問題化した現象だが、内に引きこもりたくなること自体は何も特別なことではなく、作者もある程度の実感を持って書いているように思える。〈ここには本当の痛みもなく/本当の快楽も無く/ただ凍り付いた時間が横たわっているだけ〉という表現は、人との関わりを断って一人で在るときの心象風景を的確に描いているように思え、共感できた。ただ展開が急なせいもあってか、全体としてはややデフォルメされた印象となり、切実さには欠けるとも感じた。〈なく〉〈無く〉と表記が揺れているのが気になった。

 見事な夕日を前に釣りをする老人が、釣り上げた魚に自分を見る「釣り人」。哀愁漂う映画のワンシーンのようだが、不気味な結びが読者をぞっとさせる。〈かつての栄華の残り火のような残照の中/ついに釣り上げた魚はやせ衰え/苦しそうにえらを動かしている〉情景からは、その後に〈すばらしい世界/美しい世界/だけど息苦しい〉と書かなくても、そういうことが読み取れると思った。登場人物が老人なのはなぜだろう。

不感症」。じわじわと眠りの世界に入っていくときの夢うつつの感覚を、〈ふと気が付くと、ラジオの音量が小さくなっています〉と相対的に表現しているところが面白い。世界が変わって感じられるとき、その原因がいつも外部にあるとは限らないということに改めて気付かされる。〈楽しい〉DJの声がどんどん聞こえなくなっていくなか、〈その時、一匹の蚊が私の耳元をかすめました/ひやりとした羽音がどうしようもなく不愉快だった私は/枕を振り回して対抗します〉と、不快な音には敏感なままなところも興味深い。

 〈私の心〉が海に沈んでいくさまを捉える「夢想の海」は、作者の今回の5作中では比較的抽象度が高い。〈何も見えない、何も聞こえない深海で/剥き出しの私の心が漂っている無様な姿を晒しながらも/それは深遠を目指すことをやめない〉といった描写からは、正確に正確に言葉を選ぼうとするときの熱のようなものが伝わってくる。〈心は海水に溶け、海水は心を取り込む〉と、ここでも視点が双方向であるところにハッとさせられた。

 内間武は1982年生まれ。沖国大文芸部5代目部長を務めた。  


Posted by あゆ at 07:00Comments(2)

2006年02月22日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(2)―松永朋哉

 松永朋哉「メロン殺人事件」は、題も示す通りミステリ仕立ての作品。〈物的証拠は被害者が/死ぬ直前まで食べていた/メロンだけ〉と読者を引き込むが、〈さあ、あなたも/メロンを一切れどうぞ/これを食べたなら//すべての謎が/と け る で しょ う〉と謎を深めて終わる。しかし解釈する楽しみというよりは、戸惑いを感じた。例えば、〈さあ、あなたも/メロンを一切れどうぞ〉と語りかけてくる語り手は、殺人事件の現場とは別の次元にいるが、それは誰で、どこにいるのだろうか、などということを想像するための手がかりがない。つまり詩の世界が作りかけであるように感じられた。しかし最後の〈と け る で しょ う〉には読み応えがある。これが「解ける」ではなく「溶ける」だったら恐ろしい。溶けて跡形もなくなれば、最初からなかったのと同じことになってしまう。メロンの甘美さが、すべての謎を頭の中から消してしまい、殺人事件も無に帰される。そのようなおぞましさが読み取れるように思えた。

 同じく松永「ウンケー」。ウンケーとは沖縄の言葉で「お迎え」、つまり盆の初日のこと。〈パーランクーが鳴り響く/ほのかに漂う/ジューシーの香り〉と、沖縄の盆につきものの音と匂いを拾っており、地味ながら読むたびにじわりと印象が深まる。音読してみると、特に前半部分には、厳密ではないものの長歌のようなリズムも感じられ、祈るような雰囲気を醸し出していることがわかる。〈ウチェーソーチ/ウチェーンシェービティー〉(首里方言の敬語で「お帰りなさいませ」)と、〈ご先祖様/お帰りなさいませ〉との共存は、2つの言語が同居する状況を表し、両方が別の言葉として別の連に現れているのは、同居しつつも両者に隔たりがあることをそれとなく表しているように思える。この詩は、沖縄女性詩人アンソロジー「あやはべる」第3号(2005年11月)にも掲載されている。

 松永朋哉は1982年生まれ。沖国大文芸部4代目部長を務めた。詩集『月夜の子守歌』(2003)で、2003年に第26回山之口貘賞受賞。  


Posted by あゆ at 07:00Comments(0)

2006年02月21日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(1)―伊波泰志

 簡単なプロフィールも挟みつつ、同人ごと、企画ごとに感想をアップします。私は詩人ではないので(実は書いたりはしますが、まだ発表していないので)、あくまでも一読者として感じたことを正直に記しました。何度推敲したかわかりませんが、作者の方々にとって生産的な感想かどうかは甚だ不安です。というほどのことを書いているわけでもありませんが。

 詩の感想を書くのはいつも楽しい緊張があってスリリングなのですが、同世代となるとやはり更に緊張しますね。せめてこれからの一連の記事で、「1999」に興味を持って手に取る人も増えて、ほかにも色々な感想が出てきたらいいな、そんな呼び水になれたらなと思っています。それではとりあえず作品へ。

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 伊波泰志の「サヴァイブ」は、〈問うてみても/悪魔ですと名乗る奴なんていないから/疑うしかないんだよ みんな/疑わないやつから殺されていくんだから〉と、社会への不信感をあらわにする。〈人に化けた悪魔が獲物を狙っている〉〈人に化けたモンスターを殴りつける特訓積まなきゃ〉という表現はゲームの世界を思わせる。しかしゲームにありがちな「自分VS敵」という単純な図式には、かろうじてだが陥っていないと感じた。最後の〈袋小路に大量発生する空虚/そこから本物の悪魔がこちらを覗いている/哂っている〉という句に、自己の内面への眼差しが見て取れるからか。つまり、心理的な〈袋小路〉に突き当たって、虚しさが〈大量発生〉するとき、語り手は自分の中の〈本物の悪魔〉を見ている、とも読めるように思えた。ところで〈悪魔〉〈鬼〉〈モンスター〉はそれぞれ別のものを表すのか、それとも禍々しい存在を言い換えただけなのだろうか。「サ〈ヴァ〉イ〈ブ〉」というVの表記の混同が少し気になった。

 〈たぶん俺の前世は/切り離されたトカゲの尻尾〉という冒頭が印象的な伊波「リザード」。〈現世も大概似たようなもんだが/あいにく 人間の体と脳みそ持ち歩いている〉――この「あいにく」は、切り離された犠牲という状況は変わらぬまま、自らの体と意志だけを持ってしまったやるせなさなのか、それとも敵(あるいは本体か)に対する「おあいにくさま」という対抗心か。〈人間の体と脳みそ〉をどう捉えるかで読み方が分かれると思うが、この詩の中では前者のように思えた。〈本体は誰だ/敵って何だ/俺は尻尾のままなのか〉とたたみかけるような言葉のリズムが、切実さを浮き彫りにする。自分を切り離した本体はもう別の尻尾を生やしたのか、という問いの視点や、尻尾の自分が逆に本体を生やしたら・・・・・・などというコペルニクス的転回があればもっと強烈になったのになあ、とも個人的には思った。

 伊波泰志は1981年生まれ。沖国大文芸部2代目部長を務めた。天荒俳句会に所属。合同俳句集『炎帝の仮面』(共著、2000)、詩集『柱のない家』(2002)。
http://plaza.rakuten.co.jp/hashingexpo/  


Posted by あゆ at 07:00Comments(4)

2006年02月13日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号

1999 創刊号
2005年7月31日
発行: 1999同人
A5版 58頁
入手: とりあえず同人のサイトへ
⇒ 宮城隆尋伊波泰志

 昨夏創刊された、沖国大文芸部出身の同人による詩誌。旗揚げ役の宮城隆尋ほか、伊波泰志、内間武、キュウリユキオ、トーマ・ヒロコ、松永朋哉、宮城信太朗(第2号まで)が同人に名を連ねている。詩誌名の由来は明記されていないが、「沖縄国際大学文芸同好会(注: 翌年文芸部に昇格)が発足したのが1999年」と巻頭言に見える。このメンバーが出会う場の生まれた年を、詩誌の名として歴史に刻もうという想いが背後にあるように感じた(ノストラダムスしか連想しておらず、ちょっとすまない気持ちになった)。

 沖縄詩壇に見られる世代間の隔絶を埋める試みだという。「現代詩手帖」2005年12月号でも、「宮城のリーダーシップを頼もしく思う一方で、ほかの地方に対してはどう考えているのか気になる」と評された(これに対し、宮城は自サイトで応えている)。 ネットでは、村山精二さんのサイト「ごまめのはぎしり」にて目次つきで紹介されている。

 創刊号には詩が13篇、詩篇が1篇、掌編小説が1篇寄せられており、企画として同人特集(トーマ・ヒロコ特集)、詩時評、「現役の小部屋」と題された沖国大文芸部現役部員によるコーナーがある。「現役の小部屋」には、文芸部の現部長、燎本龍夜がゲストとして寄稿している。表紙画はトーマ・ヒロコ(写真は掲載許可済)。

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 作品について、簡単にコメントしてみたい・・・・・・と寸評するつもりが、案の定とても長くなってしまいました。それだけ読み応えのある作品が揃っているんでしょう。ひとつの記事に納められないので、作品評は追って掲載します。  


Posted by あゆ at 10:36Comments(0)