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2005年07月21日/ 久志富佐子

滅びゆく琉球女の手記

 久志富佐子(本名芙紗子、1903?-1986)による小説『滅びゆく琉球女の手記』は、1932年6月号の『婦人公論』に掲載されたものです。

 当初は『片隅の悲哀』という題だったそうですが、「編集者側の思惑により、書店店頭での派手なポスター掲示とともに変更され」(『沖縄文学選』)たということで、いかにセンセーショナルな反応を呼ぶことが期待されたかがわかります。

 実際、この作品は大きな反響を呼びました。東京の沖縄県学生会や県人会、また著者の実際の叔父からも抗議があったそうです。そして著者は、翌7月号に『「滅びゆく琉球女の手記」についての釈明文』を載せることになります。

 舞台は東京。友人を訪ねての談話の中に、早くも語り手の嘆きが現れます。

稼ぎためた金で、息子を幾人も高等教育受けさせた処で、母は手の胛(こう)にしみついたいれずみの為めに、死ぬ迄故郷に置き去られねばならなかった。(新仮名遣いに改めてあります)

 「ハジチ」(手の甲などに入れ墨を入れる、沖縄女性の風俗)が差別の対象になったことはよく知られています。私も大叔母から聞いたことがあります。若い頃、大阪に出稼ぎに行っていた大叔母と姉(私の祖母)は、沖縄から母(私の曾祖母)を迎えるとき、きれいな着物と、ハジチを隠すための白い手袋をちゃんと用意して、波止場で待っていたのだと。

 今にして思えば、この作品にも書かれているように、ハジチをした女性は「死ぬ迄故郷に置き去られねばならなかった」のが普通であったはずの時代に、私の祖母姉妹はなんと勇気あることをしたのだろうと、改めて驚きます。祖母がどんな気持ちで、どんな決意を持って白い手袋を用意したのか……思い浮かべてみると、胸が詰まる心地がします。

 話がそれました。作品に戻ります。筋の大半を占めるのは、「妾(わたし)」の語る、母から聞いた故郷の様子です。沖縄(作中では一貫して「琉球」と呼ばれます)の生き地獄のような貧困のさまと、琉球人であることを隠して東京で出世した「叔父」の傲慢さ。そして不幸を一身に背負うかのような過酷な状況にありながら、ひたすら耐え抜いて生きる「叔父の父の妻」。

 ここに描かれているのは、物質的な貧しさだけではありません。心の貧しさでもあるのです。妻を下女に貶め、愛人と愛欲の生活を送る「叔父の父」や、出世して故郷を見捨てる「叔父」(『蜘蛛の糸』のカンダタのようです)を通して、それはよく描かれています。

 沖縄の貧困の様子や県民内部での差別をあまりにもはっきりと描いたことで、この作品は皮肉にも、沖縄側からバッシングされることになりました。信じられないことですが、それが現実だったようです。そのことによって生まれた釈明文が、また逆に、バッシングした側の根性の浅ましさをあぶり出すものとなりました。

 私が感動するのは、著者が釈明文の中で、少しも謝っていないことです。いえ、形だけは謝っているところもあるのですが、そこには痛烈な皮肉がこもっています。自分のことを「無教養な女」と言うのも、もちろん皮肉をこめてのこと。実際、学校にもなかなか通えない時代に第一高等女学校を卒業していますし、何より作品を読めば、彼女が真の教養人であることはすぐにわかります。少し長くなりますが、釈明文の最後の部分を引用して終わります。

妾(わたし)は、故郷の事をあしざまに書いたつもりはなくて、文化に毒されない琉球の人間が、どんなに純情であるかを書いたつもりですから、どうぞ、そうあわてずに、よく考えて頂き度(た)いと思います。でも、妾のあけすけの文章が、社会的地位を獲得しておいでになる皆様には、そんなにも強く響いたのかと、今更乍(なが)ら、恐れ入って居ります。そう云う点、深くお詫び申し上げます。地位ある方々許(ばか)りが叫びわめき、下々の者や無学者は、何によらず御尤(ごもっと)もと承っている沖縄の常として、妾のような無教養な女が、一人前の口を利いたりして、さぞかし心外でございましょうけれど上に立つ方達の御都合次第で、我々迄うまく丸め込まれて引張り廻されたんでは浮ばれません。

 沖縄国際大学教授の大野隆之氏によるサイト、オキナワの中年に掲載されている、この作品についての論:
「滅びゆく琉球女の手記」論  
久志芙沙子「滅びゆく琉球女の手記」考察/先駆的思考と気丈さ/処女作は「婦人公論」(昭和6年5月号)か  


Posted by あゆ at 01:54Comments(6)