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Posted by TI-DA at

2008年06月08日/ 大城貞俊

『G米軍野戦病院跡辺り』の書評を書きました 

 本日8日付けの琉球新報に、『G米軍野戦病院跡辺り』の書評を寄稿しました。新報の書評サイトはこちらへ。

 拙いですが、新聞デビューということで、記念にここにも載せます。

赤ハイビスカス


G米軍野戦病院跡辺り
大城 貞俊/人文書館/2008年4月

 今年の四月に刊行された本書には、表題作のほか、「ヌジファ」「サナカ・カサナ・サカナ」「K共同墓地死亡者名簿」の計四つの短編が収められている。いずれも「G村」の人々による、戦没者の弔いと記憶とをめぐる物語である。

 とりわけ印象深い「サナカ・カサナ・サカナ」の世界では、記憶は魚であり言葉だ。娘の米兵との結婚に反対し、その理由を言葉にしようとする徹雄。それは巨大な魚を釣り上げると同時に果たされるのだが、徹雄の言葉に抗うかのように、魚は釣り糸を切って海へと帰る。一方、ずっとねじれていた言葉はついに本来の姿を取り戻し、徹雄の孫に伝わった。「サカナだ!」

 生活のためにわずかな土地を耕す人々。遺体の埋葬のため、あるいは遺骨を探すために土を掘り続ける人々。亡き家族の話をしながら釣りをする兄弟。掘り返すのは土だけではなく、手繰り寄せるのは釣り糸だけではない。彼ら彼女らは、いつしか記憶の土を掘り、記憶の海から糸を手繰るのだ。戦争に「食われた」者の弔いと、彼らをめぐる記憶の想起とが、生の営みの中心にどうしようもなく在ってしまう。そのことの優しさと哀しさ。

 「ヌジファって言うのはね、その土地に縛られているマブイ(魂)を解き放つことだって」

 話すことが放すことなら、物語を話すことは一種のヌジファとなる。語り手たちは、想いを解き放とうとしているかのようだ。死者の、何より残された者の無念の想いを。そのような語り手に添う作者は、ユタの如く仲介者であろうとしているようにも見える。その身振りは、書くことによるヌジファの様相をも帯びてくる。ただしそれは、過去の清算とはならない。書かれた/掻かれた/欠かれたものは、文字どおり傷跡なのだから。そこには、未だ見出されない遺骨、縛られたままのマブイ、今なお戦地に赴く米軍、そして死亡者名簿に残る空欄もまた、しっかりと刻み込まれている。

 決して大きくはない声、しかしどこか決然とした声で、大城の言葉は語りかけてくる。私は、私の時間に、私の場所で、その声に静かに耳を傾けよう。

お箸


 初めて新聞に寄稿して、本当にいろいろなことが勉強になりました。あれもこれも反省。

 ちなみに、5月31日付けのタイムスにも、この本の書評が載っています(タイムスのサイトには書評は掲載されないようです)。  


Posted by あゆ at 13:51Comments(2)

2006年04月06日/ 大城貞俊

運転代行人

運転代行人
運転代行人
大城 貞俊
新風舎
2006年2月
ISBN: 4797481137

 先月の初めから右のサイドバーでも紹介していましたが、大城貞俊著『運転代行人』が、2月に刊行されました。この作品は、第24回新風舎出版賞フィクション部門最優秀賞を受賞して、単行本化されたものです。

 運転代行会社に勤める50代男性、高村紀夫の物語。舞台は那覇です。新風舎からの選評を紹介します。

 大城貞俊『運転代行人』は、沖縄を舞台に耳慣れぬ職業の主人公を通して描かれる人間模様。沖縄市戯曲大賞や具志川市文学賞受賞歴のある作家ならではの鋭い観察眼で多様な人間性を描ききっている。

酔客の車を代行運転して家まで送り届けるという特殊な職業に就く主人公・紀夫の視点を通して、夜の代行車で出会ったお客たちや家族、同僚らの多様な人間性を描いた秀作。沖縄という特色ある舞台設定も、沖縄出身の著者の手により作品のユニークさを増している。端正な文章で描写される情景は十人十色の生き様をよく伝え、時に感覚的な文章表現を効果的に織り交ぜて完成度を高めている。

 さまざまな人生と出逢うことで、紀夫が自分の人生を誰かの「代行」に終わらせまいと心に誓うラストはさわやかな感動を呼ぶ。 (両引用とも上記サイトより)

(ラストが違うように思うのですが、刊行に当たって書き直されたのかもしれません)

 私の話ですが、お盆やお正月には親戚一同が祖父の家に集まりました。そして食事のときは、大人の食卓、子どもの食卓が分かれていました。普段なかなか会えないいとこたちと食事をしたり、はしゃぎまわったりするのが楽しみだったのを覚えています。大人たちの中に混じって、何となく話を聞いているときもありました。「誰それはどうなって大変だね」「誰それはどうなったんだって、良かったね」・・・・・・よくわかんないけど、大人の世界があるんだなあ、という感じでした。

 無邪気にはしゃげる沖縄が「子どもの食卓」だとすると、この本の中の沖縄は、「大人の食卓」だと思います。そういった意味で、前作『アトムたちの空』とは全く違う印象を受けますが、共通するところもあります。

 それは、主人公の身辺で起こる出来事が淡々と語られている、ということです。「淡々と」という印象を与えるのは、おそらくどちらも、「神の視点」(語り手が物語の中にいないこと。映画でいうとカメラの視点)で語られていることが一因かと思います。(改めて読んで、「違うな」と思ったので、この部分は撤回します。打ち消し線は完全に誤っていたところです)

 それから、どちらも「出会い、別れる」ということが大きなモチーフになっているということ。主人公は、様々な人の様々な物語と出会い、別れることで、新たな地平へと立つことになります。

 そして個人的に注目したのは、基地の地主の息子たちが登場することです。地主の出てくる話は、これまでもあったのでしょうか。私の浅い沖縄文学読書歴では初めてでした(ご存知の方にご一報いただければ幸いです)。

 楽園でも地獄でもない、沖縄の日常。楽園でも地獄でもないのは、どこでも一緒でしょうか。そうかもしれません。

 でもやはり、いま東京で日常生活を営む者として、沖縄の日常と東京の日常とには、決定的に違うものがあると感じます。それはたとえば、地上戦体験であったり、アメリカ世の経験であったり、島を覆う基地であるわけです。そのようなことが、普通に生きているだけで否応なしに人生に関わってくることが、沖縄で「大人」として生きるということなのかもしれない、と思いました。

願いごとがあるのは、やはり幸福なことのような気がする。願ひど幸福(にげえどしあわせ)・・・・・・。

 この物語は、全くのハッピーエンドとは言えませんが、最後にひとすじの希望が残ります。でも、このことわざは、何て悲しみを帯びた言葉なんだろうと思います。「なんくるないさ」などもそうですが、単に、沖縄の楽天的気質ということではないでしょう。苦しいことを受け入れつつ生きざるを得ないからこそ、そう言いながら懸命に生きようとする姿勢なのかもしれません。そんなことを、この物語を読んであらためて感じました。

 あと、人物の多彩さ、出来事の複雑さ、雰囲気の重さと軽さのバランスなどから、ドラマ化したら面白いだろうなと思いました。沖縄に住む人、また沖縄に関心ある人には特に読んでもらいたい物語です。  


Posted by あゆ at 15:16Comments(4)

2006年01月04日/ 大城貞俊

アトムたちの空

 大城貞俊著『アトムたちの空』、読んでからもう一か月以上経つのですが、シンポジウム報告シリーズに取り掛かっていたこともあって、感想が遅くなってしまいました。

 この作品は、7月に第2回文の京(ふみのみやこ)文芸賞で最優秀賞に選ばれ、賞の一環として単行本化されたものです(ちなみに、主催した文京区の書店では、今も平積みで紹介されています)。装丁も素敵。文の京文芸賞のサイトには、著者による受賞の言葉、授賞式の様子、作品のあらすじなども載っています。

 沖縄の少年、一平の、小学4年から中学2年までの4年間にわたる物語です。写実的で、夏目漱石の『三四郎』などを思わせます(余計な憶測ながら、受賞理由のひとつのような気がしました)。たくさんの小さな場面が幾度も転回します。それでは筋はないのかというと、そうとも言えません。三四郎もそうであるように、主人公の人生のある期間を切り取っていて、全体に緩やかなつながりがあるのです。一平の家族がS村に引っ越してくるプロローグに続き、「カミースー」「愛犬メリ」「鉄腕アトム」「アー・ユー・レディ?」の4つの章があり、1章がほぼ1年間に当たります。

 どこかに書いてあったのを読んだのか、私がそう思っただけなのか、根拠がよくわからなくなっているのですが、自伝的な作品だと思います。「陸の孤島」の異名をとる、沖縄本島北部のS村のモデルは、おそらく国頭村の楚洲でしょう(「S村」と伏せてあることから、書いたものかどうか迷いましたが、楚洲は『椎の川』(1992)でも舞台となっている場所で、容易に連想できるので、秘密というわけではないだろうと判断しました)。
地図はこちら

 この本を読んでまず驚いたことは、一平たちがサバニで引越してくることです。当時の「陸の孤島」が、比喩ではなく本当にそうだったんだということを初めて知りました。そのような小さな村での暮らしが本当に丁寧に描かれていて、読んでいるうちに、昭和30年代のS村にワープしたような気分になります。後々、資料としても貴重となる作品ではないかという気がします。

 主な登場人物は、主人公一平をはじめ、大助、勇治、信男の4人の少年たち。「ズッコケ3人組」のような楽しさです。ズッコケシリーズのようにキャラクターが作り込まれているわけではないので、ちょっと雰囲気は違いますが。つまり、人物像に、簡単には掴みきれない複雑さがあります。著者が頭の中で考え出したのではなく、交わした言葉のひとつひとつを必死に思い出しながら、少年時代から呼び出してきたような感じがするのです。

 帯では、「沖縄の少年たちの成長をみずみずしく描く」という風に紹介されています。言い換えると、これは一平たちの出会いの物語だと思いました。各章のタイトルがそれをよく表しています。一平と仲間の少年たちが、身近なところからだんだん遠くへと目を向けていく様がわかるように思います。

 カミースーというのは、一平の近所に住んでいるおじいさん。恐れていたカミースーのことを、一平たちは少しずつ理解するようになります。それは、一平が父から聞いた戦争の話がきっかけでした。

 愛犬メリは、少し離れたところに住む友人、克夫が一平に譲った犬。克夫は勇治たちと仲が悪かったので、一平は複雑な気持ちながらも、勇気を出して克夫と近づきます。

 鉄腕アトムは、村に一台だけ来たテレビのおかげで、少年たちが夢中になったヒーローでした。ヤマトのメディアの影響が濃くなり始める時期です。

「アー・ユー・レディ?」とは、憧れの英語教師、初子先生の口ぐせ。先生に褒めてもらうために必死に英語を勉強したり、村に来た米兵に驚いたり、一平たちはアメリカという世界を垣間見ます。

 開けていく外界への眼差しと平行して、性の目覚めという内面的な成長も描かれています。初めのころには山羊の交尾を覗き見していたのが、後のほうでは初子先生の入浴姿になっていたり(笑)、思わず笑ってしまう場面もたくさんあります。

 各章のタイトルに沿って、出会いのことだけ挙げましたが、出会いが描かれる一方、必ず別れも描かれています。ひとつひとつは挙げませんが、特に印象的だった一文を引きます。「一平」が著者にこの物語を書かせた理由のような気がしたので。

 こんなに悲しいことなのに、メリも、克夫も、モグモグも、いつか一平の記憶の中から消えてしまうのだろうか―。

 一平くん、安心していいよ。一平くんの記憶は、この本の読者に受け継がれていくから。

 とりとめなく書いてきましたが、私はこの物語が好きです。泣いたり笑ったりしながら、本を一気に読み通したのは久しぶりでした。審査員の一人である青木玉氏が、「作者が行間にどれだけの思いを込めたのかということを、私は読む気がいたしました」と述べられていたのをどこかで読んだのですが、私も同感です。また、感情を揺すぶられるだけではなく、沖縄という土地の状況を冷静に考えさせてくれる話でもあると思います。説教臭いところは少しもありません。陸の孤島に様々なものが入ってきて「文明開化」していく様を読むうちに、沖縄の運命そのものに思いを馳せずにはいられないのです。

 土地の聖霊の言葉を、ぜひ聴いてみてください。  


Posted by あゆ at 06:39Comments(2)

2005年09月28日/ 大城貞俊

或いは取るに足りない小さな物語

詩集 或いは取るに足りない小さな物語
大城貞俊 著
なんよう文庫
2004年11月
ISBN: なし

 7月10日の記事でも紹介しました、山之口貘賞を受賞した大城貞俊さんの詩集です。もう書店でも流通しているでしょうか、私は8月にお会いしたKさんにいただきました(本当にありがとうございました)。

「Ⅰ 現実」「Ⅱ 詩という夢」「Ⅲ 寓話」の3つの部分から成っていて、その中の詩にまた番号がついています。Ⅰは12まで、Ⅱは17まで、Ⅲは10まで。この大きく分かれた3つの部分は、章なのか、それともそれぞれが一つの長い詩の題なのか。普通に読めば前者かと思いますが、詩のトーンが一貫しているので、読み進めるうちに番号を取り払いたいような気分になりました。それとも、番号も詩の一部なのか……レイアウトからすると、そういう意図はないと思いますが、そんな気さえしてきます。いくつかの詩のつながりを、あるいは詩集全体を一つの詩として見ることもできる、というのはまあよく言われることですね。

 83ページの薄い詩集ですが、言葉の一つ一つが重くて、読むのに時間がかかる詩集だと思いました。政治的な文脈で読める詩も多くて、「ニッポン」「ニンゲン」といった表記には厭世観も覗いています。というより、基本的に絶望から始まった詩たちと言ってもいいかもしれません。読みながら、「感情が随分生々しい……」と何となく思ったのですが、あとがきを読んでちょっと納得しました。

(2004年の沖国大ヘリ墜落、ロシアでの学校テロについての導入を受けて)このような状況の中で、詩に向かうと、言葉が何者かに取り憑かれたように溢れてきた。一気に書き下ろしたのが、この詩集になった。

 突然挿入される「語り」が多いのも、この詩の特徴の一つでしょう。それらの語りは、かぎカッコ付きだったり、カタカナと漢字のみだったり、1字下げだったりと様々な形で出てきます。誰かに呼びかけるようでもあり、自分だけにつぶやいているようでもあり。「もしもし」って誰に電話しているんだろう? 様々な声が飛び交っていて、それらを全部聴き取るのにはものすごく時間がかかりそうです。書きながら気付いたんですが、読むのに時間がかかると感じたのは、このことが大きいのかもしれません。

父さんの口元は、ぼくに語っている
ようこそ、人生へ

「詩という夢」、6番から。自伝的な詩です。過去の幸せな記憶は、まるで現在という泥沼に咲く蓮の花のよう。もの哀しい光を放っているように感じました。今は何度読んでも、涙が出てしまいます。

この島で、ぼくたちの視線は
いつまで素朴な堕落に耐えられるだろうか
さようなら、それでもぼくは言葉から逃げない

 この詩集最後の詩、「寓話」の10番から。「さようなら」って、ちょっとどこに行くの? と駆け寄りたくなるのは、どういうわけか。多分この詩集が、醜い現実を見据えたものであると同時に、そしてそれだからこそ、この世を超えた世界へ強く誘われる想いにあふれているからかもしれません。

さようなら、或いは取るに足りない小さな物語

 ぽつねんと取り残された私は、またページを戻して、詩人をこちらに呼び戻すのでした。  


Posted by あゆ at 14:22Comments(7)