2006年02月28日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/企画評(2)―詩時評/現役の小部屋/まとめ

 伊波泰志による詩時評「1981の所感 第1回」には、沖国大文芸部員の詩集上梓、東風平恵典氏の『嵐のまえぶれ』評、大城貞俊氏の『或いは取るに足りない小さな物語』評、沖縄県高校文芸誌コンクールについてといった内容が盛り込まれている。タイトルは、筆者が1981年生まれだからか。第2号の前号批評では、宮城隆尋が〈沖国大文芸部の活動よりは東風平、大城両氏の作品に対する評を前面に出したほうが、対外的な印象としてはよかったと思う〉と述べている。確かに、文芸部を「内輪」と意識しないで全作品を等しく時系列順に評しているところが、ベテランの目には生意気だと映る恐れもあるかもしれない。私は同世代だからか、「若者らしくていいのでは」とかえって好感を持った。世代をつなぐというこの詩誌の目的に照らせば、高校文芸誌コンクールについての記述ももう少しあってもいいかと思った(個人的に興味もある)。

現役の小部屋」には、現在部長を務める燎本龍夜が、詩「ルノワールの御空」と部近況「さいきんのぶんげいぶ」を寄せている。

ルノワールの御空」は、夕焼けの空を〈赤錆が山へと崩れていく〉と捉えているところが、不思議な感覚だと思った。そして、小惑星をひっかいて爪の間に詰めながら、空の色をバリバリと剥がしていき、〈僕〉は宇宙の果てを覗く。〈筆からポタリと垂れ落ちた黒い点の僕〉という句からもわかるように、世界を絵画に喩えて夢想を楽しんだ作品だ。〈僕ら〉の存在する〈楽園〉は、〈フロンティア〉だという。〈虫よりもちっぽけ〉でも、宇宙の果てまで見ることができる〈僕ら〉が世界を開拓しているという認識が表れている。2連5行目の〈知ぬ〉は〈知らぬ〉か。あと、〈混入〉が「され」てしまっている。

さいきんのぶんげいぶ」には、(という名の燎本日記)と副題がついており、これが少し内輪の感覚を強めてしまったかと思う。個人的には問題ないと思うけれど。内容としては、普段の文芸部の様子や合評会の様子がバランスよく伝えられていて、私は全く関係ない人間だが読んでいて面白かった。第2号では省かれているが(編集後記でも「最大のミス」だと触れられている)、続いてほしいコーナーだ。

 全体として、目的意識のはっきりした良い詩誌だと思う。それでいて真面目すぎず、どこか肩の力が抜けていて、遊び心も感じられる。トーマ・ヒロコの表紙画からしてそうだ。「何を描こうかさっぱり思いつかずにベランダを見て描いたもの」(本人談)らしく、自然体。作品に関してつけ足すと、言い切ってしまいたい誘惑に駆られるのはわかるが、もっと読者を信頼してもいいと思う。それはとても勇気の要ることかもしれない。でも、そうすればもっともっと面白くなると思った。同世代の一読者として、これからも期待したい。
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 創刊号ということで、歯止めをかけずに書いたら大変なことになりました。お付き合いくださってありがとうございます。また、作者の方々からも直々にコメントをいただけたのは、とてもうれしく励みになりました。改めて、ありがとうございました。


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Posted by あゆ at 20:39│Comments(5)
この記事へのコメント
どうぞ今後とも、「歯止めをかけずに」書いてください(^-^b

「大変なこと」大歓迎です!
Posted by びん at 2006年02月28日 21:08
びんさん、ありがとうございます。
はい、歯止めをかけない先輩にならって(^m^)
ブログの醍醐味のひとつですね。
Posted by あゆ at 2006年02月28日 23:55
そうですね・・・
ブログの粗大ゴミと呼ばれぬように・・・(≧о≦;
いやはや(笑)
Posted by びん at 2006年03月01日 22:13
う~ん、詩の批評ってこういう風に書くんですね。すごい。
感心しながら読みました。
Posted by 茶太郎 at 2006年03月03日 22:42
ありがとうございます(照) でも批評というより、まだ感想に毛を生やした感じですね。歴史的な文脈では書いていないし。やっぱり歴史ですな(どういう結論だ)。
Posted by あゆ at 2006年03月04日 13:19
 
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