2010年12月04日/ 断想・随筆

沖縄の基地問題に関して、誰が、何をすべきなのか

沖縄の基地問題に関して、誰が、何をすべきなのか。

ここで考えたいのは、「誰がどのような役割を負っているのか」ということだ。私たちの生きているこの社会のなかで、誰が、何をすることになっているのか。そう言いかえてもいいかもしれない。

私は問題の内容についてまだ詳しい知識を持たないため、また問題に関する議論を追えていないため、様々な人の様々に揺れ動く感情―怒り、悲しみ、疑問、絶望感、無力感、諦念、そして揺れ動きさえしない無関心など―に影響を受けやすい。しかし、いつまでもそのような状態では、どこにも進むことができない。そこで、沖縄で育ち、沖縄の外で暮らす私なりに、考えを深めていきたいと思う。

私がこの文章を書きながら考えようとしていることは、抽象的、原理的なものとなるだろう。ひとつには、基地問題についての詳しい知識を持たないゆえに、そうならざるを得ないからだ。しかしまた、具体的で複雑な問題の森に分け入る前に、自分には何ができて何ができないのかを考えることは、「私は何をすればいいのか」ということを冷静に考えることに役立つ。それは自分の立ち位置・役割のマッピングであり、方位磁石を持つことだ。



まず、政治家と一般市民のレベルを別にして考える。政治家の場合は、話は複雑ではない。政治家の仕事は政治、つまり、秩序ある共同体を作るために、その共同体の進む方向を判断し、決定することだ。

日本政府は、政治的決定をする。
沖縄の政治家は、政治的交渉・要請をする。


では、一般市民は? 政治家を選挙で選ぶ。

しかし、市民の場合は、話はそんなに単純ではない。選ぶ主体、つまり投票する人は「大勢」であり、その「大勢」は、それぞれバラバラな動機で投票する。日々の暮らしのなか、この一票がどんな意味を持つのか、じっくり考える時間を持つのも簡単ではない。

そしてもちろん、それは望ましいことではない。そう考える人が、意見を公表する。対話や議論をする場を設ける。個人では「大勢」にも「政治家」にも太刀打ちできない、とさらに一歩踏み出すなら、同志を募って組織を作り、人々や政治家に働きかける(平和運動のNPOなど)。そして、望ましい未来のあり方について人々の共感と合意を得ていって、それが選挙に反映されることを目指していく。私たち一般の民の判断・決断が、政治家の判断・決断を変える、はずだからだ。

では、沖縄の基地問題に関して、どこの人々が、何をすべきなのか。

まず、沖縄の人々とそれ以外の人々とでは、やはりできることが異なる。日本政府と直接交渉する沖縄の政治家を選ぶことは、沖縄の人々にしかできない。

沖縄の人々は、沖縄の政治家を選ぶ。

では、県外に住む私も含めて、それ以外の人々には何ができるだろうか。

考えること、意見を公表すること、対話や議論をする場を設けること、組織的に運動すること・・・つまり、私が上で挙げたこと。そのために、確かな情報にもとづいて、論理的に考えること。

つまり、問題を正しく認識し、考え、発信すること。これ以外にあるだろうか?

ただ、その作業は時間と労力のかかるもので、それにある程度専念しようと時間の割ける人―学者やジャーナリストや運動家など―でないと、現実には難しい。そこまで行かなくても、情報に振り回されないように心がけることができる。単純に考えるだけで終わらないこと。冷静に物事を見極めること。実はそれが一番、簡単ではないかもしれない。しかしそれこそ、一般市民として生きる上で何よりも必要なことだと思う。

県外の人々は、問題を正しく認識し、考え、発信する。

これはもちろん、沖縄の人々にも必要だ。先ほどの文に付け加える。

沖縄の人々は、問題を正しく認識し、考え、発信する。
そして沖縄の政治家を選ぶ。




言うまでもないことだが、沖縄で暮らしている人だけが問題を正しく認識できるわけではない。一方で、こちらで暮らしている人がみな、他人事のようにとらえているのでもない。重要な問題にすべて言及できる人もいない。どの人も自分の専門分野の仕事をしながら、その時々に前景化する問題について、意見を述べる。

先の記事で紹介した大澤や宮台のように、単なるコメントから一歩踏み込んで、沖縄の(主に政治家や役人の)取るべき方向を提言する学者もいる。その言説は必ずしも、沖縄の人々に全面的に歓迎されるわけではない。沖縄だけが考えなければいけないのか、自分たちは運動を盛り上げることもできないのに、問題解決まで沖縄に押し付けるのか、と。

私はそうは思わない。もちろん思いつきだけの提言はいらないが、彼らの提言のように、確かな情報と調査にもとづいた、論拠のしっかりしたものもある。論拠のしっかりとした提言をすることが、いかに精力を尽くした行動と思考の結果であることか。それがこの問題に関して、いわゆる「ヤマトゥンチュ」 の彼らにできる最高の仕事だと思う。

政治は感情で動くのではない。大規模な運動も、もちろん民意の発現として重要な意味がある。しかし、大規模な運動だけで政治が動くなら、こんなに問題が長引くはずがないのではないか。政治を最終的に動かすのは論理だ。その論理を、隠された論理も含めて、私たち市民が理解する必要がある。

宮台はジャーナリストの神保哲生と組んでウェブで番組を発信しており(マル激トーク・オン・ディマンド)、沖縄の要人たちの声を草の根的に届ける機会も作っている。それが本にまとめられたのが、『沖縄の真実、ヤマトの欺瞞』だ。この本のなかで、宮台と神保は、真喜志好一、伊波洋一、大田昌秀、我部政明の4氏とそれぞれ鼎談し、最後に二人で対談している。

何が賛成できる言説か―私の採用している基準として、論理がしっかりしていること、そして語る人が自分の立ち位置、自分の言葉に十分に意識的であること、などがある。上で紹介した本に登場する人々の言葉もまさにそのようなもので、信頼できるものだ。

問題を正しく認識し、考え、発信する。そのために私が今したいのは、確かな情報を得て、信頼できる言説を先達として、自分の頭で考えることだ。そうすることで初めて、どんな人とも実りある話ができる。

沖縄の基地問題に関して、私は、私の言葉で考える。
そして、多くの人に理解される論理と言葉を獲得できればと思う。■

注----------------
 私はこの言葉も差別だと思う。差別されたら仕返す、というのは、された者の最初の反応としてやむを得ないところがあるだろう。でも、もうやめなければいけないのではないか。そのような態度は、問題解決を遅らせることにつながる。


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Posted by あゆ at 21:36│Comments(0)
 
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