2006年02月25日/ 沖縄の詩誌

1999 創刊号/作品評(5)―キュウリユキオ

 キュウリユキオ「使者」は、〈彼〉に操られる〈私〉の行動の顛末を、〈私〉が報告するという作品。掌編小説のような楽しさがある。敢えて言葉を省かず、説明的に書いており、行分けも最小限に留められている。正確には5行目の〈こそばゆい私は寝返りをうち不覚にも彼を奥へと追いやってしまった〉以降から、何かのスイッチでも入ったように1行がとても長くなる。もしかしたら、操られる前の〈私〉の発話は、〈午前3時/床に就いた私の耳に/彼は急ぎ足でやってくる/そして土足で入り込む〉の冒頭4行で終わっており、あとは詩そのものも〈彼〉に書かされているのかもしれない。そんな印象を受けた。

 それからこの作品には、現代社会の歪みとでも言えばいいのだろうか、自然な在り方のできなくなった人間の世界が織り込まれていると感じた。例えば、〈この家で妻が一番に可愛がっている観用植物〉〈家庭と隔離された社会で一日働いた私〉といった句、また植物の鉢の飴玉に群がる蟻を駆除する妻の様子など。オチもあるが、もっと続きが読みたい感じだった。観葉植物が〈観用植物〉、〈鑑用植物〉となっているが、意図的なものだろうか。
 
 キュウリユキオは1979年生まれ。ペンネームをキュウリユキコより改名。「1999」第2号より編集を務める。詩集『アカイツノ』(2003)。


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Posted by あゆ at 07:00│Comments(2)
この記事へのコメント
ヤマトの賢者がおっしゃいました。ヤマトとウチナーは違うから、私達ヤマト人は身近な異質を学んでつき合い方を学ぶようにしたら、日本全体も豊かになるのではないかと提案された。異質を学ぶということはヤマト的理解でウチナーを理解することではない。そうだとすると「ウチナービケーン」と揶揄することがときに気の利いた批判となりえる。そうではなくウチナーを理解することによってヤマトを違う視点でみることである。ヤマトの人間がウチナーにたってヤマトを見る視点が大事なのだ。ウチナーの場合はすでにヤマトの視点にたたされているので複眼的である。「沖縄のボケ」ということはヤマトからウチナーを見ただけの視点にたっているウチナーンチュのことである。いつのまにかヤマト的理解のウチナーに疑問をもたないウチナーンチュがいるということである。伊波晋猷氏が沖縄の感触を持ちつづけながら安易に弥生ヤマトに一体化したことが、沖縄の知的層の沖縄のボケの始まりである。明治維新の貧困化が日本の知識層でも担われたとみてもよい。神がそのことを望み消滅するウチナーが歴史的運命なのなら問題はない。はたしてそうか?何ゆえか得体のしれない渦があり、それがくっきりとふくらみをもたせている沖縄は何かをもっている。それが沖縄の立場なのだ。文化の始まりには神がいる。民族神と
世界神のリンクを考えることはそもそも神をこしらえた最終の動機ではなかったか?文化闘争は今経済闘争となって怨念を文化の違いに向けようとしていて、宗教による閉鎖システムに立てこもるか、あるいは民族神的戦いしか残されていないのかのように映っている。ましてや資源の不足は現実のものになろうとしているからプチナショナリズムはブチを孕んでいる。現実的だということは、損をしないのが国益だと思いこみブチキレナショナリズムが高揚するほうにも傾きそうだ。新たな視点は世界神がこの問題をどう扱うか見守ることにある。世界神があるという視点が厳然と存在するという確かな根拠をみようとすることである。「銀の龍の背にのって」で正しくメッセージした中島みゆきは「それ」を伝えた。ウチナーグチにはそれという指示代名詞はない。日常用語でないという意味でないのだ。それが本来指し示すスクが独立してあるから「大切なスリー」として切り離されたいきさつがある。少し説明がいる。沖縄にはコソアドのソはない。ソレは三母音化するとスリです。ありんくりんはあるがすりんはない。しかし祭りではスリーという掛け声がなければならない。そこから始まるソコのソとは巣であり素であると漢字が正しく象形した意味がある。スから事がおこる。それとは指し示すことができないから世界の出来です。だからねぇ!それって何よと問われても、銀の龍がそれっぽいんじゃないかとしか言えません。世界素か世界巣を意味しているといってもキザに聞こえるだけだから「銀の龍」に託されたことと言ったほうがいい。一青窃をヒントにしてもいいんじゃないか?ただ通り過ぎただけ、君がまわるため、どこ吹いた風でした、くるりかざぐるまと歌った彼女は「何かが芽生えたみたい」と語り今年から萌える女に変身した。漢アヤ族のハーフが世界の風を体現して日本に新風をもたらし、又そのことが世界を変える流れにつながってゆく。彼女のプロフィールも今年を先導する人としてふさわしい。すでに両親は他界されていらして、無常を感じやすい境遇にあるし台湾語、北京語を操ることができ「実力のほどはわからないがかたことではないだろう」民族性ということを超えたものを理解しやすい立場にある。思い起こせば、もらい泣きではへたり女が歌うという演出で歌い始めた。精妙なるものが彼女に胚胎したと理解しても、その後のミュージックシーンを追うと間違いではなさそうだ。青の一文字がはいっている字魂も運命的なものを感じさせる。折しもフィギア女子で日本は唯一のメダルを荒川静香がとった。彼女の表彰台のときのコスチュームは青だった。やがてショッキングブルーが訪れる。日本の深い意識に萌えるものが育ちあらわになる年であることは間違いない。唯一のメダルがこれしかないブルー。ブルブル、ワクワク焦点が合う人は幸いだ。
Posted by ガジャン at 2006年02月25日 14:56
記事と関連するコメントをお願いします。そのことは以前にもお断りしていますので、今後、このような書き込みは勝手ながら削除させていただきます。悪しからず御了承ください。
Posted by あゆ at 2006年02月25日 17:35
 
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