2008年09月25日/ おぼえがき

沖縄の文学に「道化」は?

 ご無沙汰していました。東京はどんどん秋めいています。お元気でお過ごしでしょうか。

 『道化の文学―ルネサンスの栄光 (中公新書)』という、面白い本を読みました。14~16世紀、ルネサンス時代の文学に出てくる道化についての話です。エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスに興味のある方にはとくにおすすめです。

 読み終えてから、ふと、沖縄の文学に「道化」はいるのか、という疑問が浮かびました。権力者の側近に道化がはべるという文化がアジアには無かった(んですよね? それともあったのでしょうか)ということで、シェイクスピアに出てくるようなそのものすばりの道化が出てこないのはわかりますが、ドン・キホーテとか、時代下ってメフィストフェレスのような、道化的な性格をもつ人物は出てくるのか、という疑問が。私が読んだ範囲では、狭いからか、まだ出会ったことがありません。

 沖縄の「道化」というと、エイサーのチョンダラーしか思い浮かびませんでした。滑稽な姿、場を取り仕切る機知(青年会でも先輩格が務めるようですね)、自在な移動など、まさしく「道化」だと思います。あっ、あと川満しぇんしぇいもそうかも(誉め言葉なのです!!)。

 魅力的な道化・トリックスターがもっと出てきたら、沖縄文学と呼ばれるものももっと面白くなるのになと思ったりします。「道化」の得意技のひとつに戦争批判があるのだし、「お道化者」はきっと、沖縄のかかえている主題(そういうものがあるとすれば)にも合うのでは、とも。

 沖縄の文学のなかの「道化」、ご存知のかたがいらっしゃいましたら、教えていただけると幸いです。あと日本の文学では誰がいるだろう。


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Posted by あゆ at 07:00│Comments(3)
この記事へのコメント
組踊では「間の者」(マドゥヌムン)という役割が、ストーリーの展開を要約したり、道化的に振舞って、所謂中心と周縁の構造を明らかにするようです。
近現代の小説では、とくに大城立裕の作品の中の「巫女」(ユタ)の存在は、道化を意識しているように思われます。
いかがでしょうか。
Posted by りん at 2008年09月25日 15:44
「世替わりや世替わりや」という大城の戯曲では、「巫女」が人々の身の上を予言し、物笑いにされたり、軽くあしらわれたりするのですが、真剣に語る様子が、いかにも道化的で、しかも沖縄の世相や歴史を直截的に批判します。
目取真俊の「水滴」のなかでは、水を集めて一儲けをたくらむ人物などは、やや道化的役割を担っているように思います。

よく記憶していなくて申し訳ないのですが、新城郁夫さんの「沖縄文学という企み」にも、道化(トリックスター)について論じられていたと思うのですが…参考にしてみてはいかがでしょうか。
Posted by りん at 2008年09月25日 16:42
りんさん、さっそくのご教示ありがとうございます!
なるほど、仲介者としての道化ですね。新城さんの論も、いずれ読んでみたいです。ありがとうございました。
Posted by あゆ at 2008年09月26日 00:54
 
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