2008年06月12日
「人類館」の朗読劇が上演されます
知念正真の戯曲「人類館」が、この夏に朗読劇として、沖縄と東京で上演されるそうです。詳しくは劇団青年座のサイトに載っていますが、このブログにも公演情報を一部だけ転載させていただきました。
劇団青年座による上演案内サイトはこちら>
http://seinenza.com/performance/studio/106.html
津嘉山正種ひとり語り 人類館 (朗読劇)
作=知念正真
演出=菊地一浩
沖縄公演
上演日程:7月24日(木)・25日(金)
沖縄市民小劇場あしびなー
東京公演
上演日程:7月31日(木)~8月3日(日)
青年座劇場
劇団青年座による上演案内サイトはこちら>
http://seinenza.com/performance/studio/106.html
2008年06月08日
『G米軍野戦病院跡辺り』の書評を書きました
本日8日付けの琉球新報に、『G米軍野戦病院跡辺り』の書評を寄稿しました。新報の書評サイトはこちらへ。
拙いですが、新聞デビューということで、記念にここにも載せます。

G米軍野戦病院跡辺り
大城 貞俊/人文書館/2008年4月
今年の四月に刊行された本書には、表題作のほか、「ヌジファ」「サナカ・カサナ・サカナ」「K共同墓地死亡者名簿」の計四つの短編が収められている。いずれも「G村」の人々による、戦没者の弔いと記憶とをめぐる物語である。
とりわけ印象深い「サナカ・カサナ・サカナ」の世界では、記憶は魚であり言葉だ。娘の米兵との結婚に反対し、その理由を言葉にしようとする徹雄。それは巨大な魚を釣り上げると同時に果たされるのだが、徹雄の言葉に抗うかのように、魚は釣り糸を切って海へと帰る。一方、ずっとねじれていた言葉はついに本来の姿を取り戻し、徹雄の孫に伝わった。「サカナだ!」
生活のためにわずかな土地を耕す人々。遺体の埋葬のため、あるいは遺骨を探すために土を掘り続ける人々。亡き家族の話をしながら釣りをする兄弟。掘り返すのは土だけではなく、手繰り寄せるのは釣り糸だけではない。彼ら彼女らは、いつしか記憶の土を掘り、記憶の海から糸を手繰るのだ。戦争に「食われた」者の弔いと、彼らをめぐる記憶の想起とが、生の営みの中心にどうしようもなく在ってしまう。そのことの優しさと哀しさ。
「ヌジファって言うのはね、その土地に縛られているマブイ(魂)を解き放つことだって」
話すことが放すことなら、物語を話すことは一種のヌジファとなる。語り手たちは、想いを解き放とうとしているかのようだ。死者の、何より残された者の無念の想いを。そのような語り手に添う作者は、ユタの如く仲介者であろうとしているようにも見える。その身振りは、書くことによるヌジファの様相をも帯びてくる。ただしそれは、過去の清算とはならない。書かれた/掻かれた/欠かれたものは、文字どおり傷跡なのだから。そこには、未だ見出されない遺骨、縛られたままのマブイ、今なお戦地に赴く米軍、そして死亡者名簿に残る空欄もまた、しっかりと刻み込まれている。
決して大きくはない声、しかしどこか決然とした声で、大城の言葉は語りかけてくる。私は、私の時間に、私の場所で、その声に静かに耳を傾けよう。

初めて新聞に寄稿して、本当にいろいろなことが勉強になりました。あれもこれも反省。
ちなみに、5月31日付けのタイムスにも、この本の書評が載っています(タイムスのサイトには書評は掲載されないようです)。
拙いですが、新聞デビューということで、記念にここにも載せます。

G米軍野戦病院跡辺り
大城 貞俊/人文書館/2008年4月
今年の四月に刊行された本書には、表題作のほか、「ヌジファ」「サナカ・カサナ・サカナ」「K共同墓地死亡者名簿」の計四つの短編が収められている。いずれも「G村」の人々による、戦没者の弔いと記憶とをめぐる物語である。
とりわけ印象深い「サナカ・カサナ・サカナ」の世界では、記憶は魚であり言葉だ。娘の米兵との結婚に反対し、その理由を言葉にしようとする徹雄。それは巨大な魚を釣り上げると同時に果たされるのだが、徹雄の言葉に抗うかのように、魚は釣り糸を切って海へと帰る。一方、ずっとねじれていた言葉はついに本来の姿を取り戻し、徹雄の孫に伝わった。「サカナだ!」
生活のためにわずかな土地を耕す人々。遺体の埋葬のため、あるいは遺骨を探すために土を掘り続ける人々。亡き家族の話をしながら釣りをする兄弟。掘り返すのは土だけではなく、手繰り寄せるのは釣り糸だけではない。彼ら彼女らは、いつしか記憶の土を掘り、記憶の海から糸を手繰るのだ。戦争に「食われた」者の弔いと、彼らをめぐる記憶の想起とが、生の営みの中心にどうしようもなく在ってしまう。そのことの優しさと哀しさ。
「ヌジファって言うのはね、その土地に縛られているマブイ(魂)を解き放つことだって」
話すことが放すことなら、物語を話すことは一種のヌジファとなる。語り手たちは、想いを解き放とうとしているかのようだ。死者の、何より残された者の無念の想いを。そのような語り手に添う作者は、ユタの如く仲介者であろうとしているようにも見える。その身振りは、書くことによるヌジファの様相をも帯びてくる。ただしそれは、過去の清算とはならない。書かれた/掻かれた/欠かれたものは、文字どおり傷跡なのだから。そこには、未だ見出されない遺骨、縛られたままのマブイ、今なお戦地に赴く米軍、そして死亡者名簿に残る空欄もまた、しっかりと刻み込まれている。
決して大きくはない声、しかしどこか決然とした声で、大城の言葉は語りかけてくる。私は、私の時間に、私の場所で、その声に静かに耳を傾けよう。

初めて新聞に寄稿して、本当にいろいろなことが勉強になりました。あれもこれも反省。
ちなみに、5月31日付けのタイムスにも、この本の書評が載っています(タイムスのサイトには書評は掲載されないようです)。
2008年05月24日
1999 第5号 & 第4回おきなわ文学賞の募集要項
私の口が語るのは
どこかで聞いた どこかのおはなし
(大城望美 「世代のおわりに」から)
何事もなかったかのように素面に戻って、「1999 Vol.5」のなかで印象深かった詩の紹介と感想をほんの少し。
大城望美さん「世代のおわりに」は、おきなわ文学賞特集作品のひとつ。大城さんは、「受験抄」(この詩も同号に載っています)で佳作を受賞していて、「世代のおわりに」は新作です。
言葉の主は、どうやら沖縄から出て別の土地に来たらしい。読んでいると、武蔵野の名が。私が東京に来て最初に住んだのも武蔵野でした。なんだか昔の自分を見つけたみたいでした。私は、彼女のような、命ある言葉を持ってはいませんでしたが。

そして、私も今日1999のサイトで知ったのですが、第4回おきなわ文学賞の作品募集が始まりました。募集要項はこちら。
http://okicul-pr.jp/mov/2008/05/post_27.html





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