2006年03月11日/ おぼえがき

作者と作品(7)―仲介者

 パズルの切り分け方や、モザイクの組み合わせ方を、「自分が決めている」と作者が認識していたとしたら、それは恣意にすぎない。別にそれが悪いと言いたいわけじゃないし、恣意かそうでないかは、証明できることでもない。

 ただ、どの分野の芸術家でも、ある域に達すると、似たことを言う気がする。以下は私の好きな作家の言葉。

・・・・・・本を書くというのは、言葉でひとつの現実をつくることです。そして、この言葉たちはある意味で自律性を持っている。言葉は(作家が)自分で作るわけじゃない。それはすでにそこにあるものです。それに、言葉は、現れるものでもある。そして、つかみかたが乱暴でなければないほど、さわりかたが、そっとやさしくあればあるほど、現れるものも多くなるし、言語がおのずから提供してくれるものも多くなります。わたしはそれを頼りにすることがよくあるのです。わたしの旅には大雑把な地図があって、残りはわたしに向かって生じるのだし、どこかから与えられるわけであり、わたしに起きるのです。 (ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白―エンデが最後に話したこと』より)

『モモ』『はてしない物語』の作者として知られる、ドイツの作家ミヒャエル・エンデ(1929-1995)のインタビュー集から。エンデは、本を書くことを〈冒険〉と言っている。それは比喩ではなく、文字通りのもので、〈わたしをどこへ連れてゆき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない〉と言う。そして、〈大雑把な地図〉(=作品の中の論理)を頼りにしながら、〈わたしに向かって生じる〉もの、〈どこかから与えられる〉もの、〈わたしに起きる〉ものを書き留めていく。エンデにとって、作者、つまり〈わたし〉は主語ではなく、目的語になっている。自律性を持った主体は、〈言葉たち〉。

 つまるところ、エンデは、言葉の世界と作品との仲介者なのだと思う。「言葉の世界」というのも、これまた厄介なものだけど。

 前回の記事での問いに答えてみると、パズルそれ自体が切り分け方を、モザイクそれ自体が組み合わせ方を決めている(あるいは「求めている」かな)ということになるだろう。

 ここで「神が決める」という表現をしないところは、近代人だ、とも思う。エンデは、特に、「神を殺した」ドイツ人(「神は死んだ」と言ったニーチェを生んだという意味で。でも、このことへの理解もまだ浅い。課題)。古代の芸術家なら、神が決めると考えたのかもしれない(あるいは、アジアも?)。

 でも、本質的には同じことではないかと思う。人間が主体なのではなく、人智を超えた存在が、人間を介して、何かを作らせる。その点で、エンデは近代ヨーロッパから一歩抜けている(多分)。

 手を動かすのは人智を超えた存在だから、当然、人間には何だかわからない。何だかわからないけど、どうしてもそうせざるを得ない、何かが自分をそうさせる、そんな仲介者の立場で作られたもの。私が、「作者にとって偶発的ではない境地に近づいた作品」、と呼んだのは、そういうものだったと思う。

 ちなみに、パズルとモザイクを例に出したのには訳がある。パズルには言語芸術を、モザイクには視覚芸術を重ねた。けれどもそれはまた別の話、いつかまた別のときに。  (おわり)


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Posted by あゆ at 23:52│Comments(1)
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Posted by あゆ at 2006年03月12日 14:25
 
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