2005年08月02日/ 山之口貘

会話

 山之口貘の詩の続きです。「会話」は、恋人との会話で、「僕」の故郷を当てるという形の問答になっています。前回のユーモラスな詩とは、ガラッと雰囲気が変わります。

お国は? と女が言つた
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ
 1連が、「女の質問・『僕』の思案・『僕』の答え」という3つの部分から成っていて、この形の連が4回繰り返されます。

 そういえば今気付きましたが、前回、私は「妹へおくる手紙」の中の語り手「兄さん」のことを、何のことわりもなく「貘」と言ってしまっていました。伝記的背景から、「兄さん=山之口貘」であると思って間違いないでしょうし、一感想文としてはかまわないとは思います。その人がそう読んだということで。でも、文学の話をする場合、「作品の中でしゃべっている人(語り手)」と「筆者」は、どんなに近く思えても区別する必要があります。その理由は、いずれ述べたいと思います。

 この詩には、変わった言い回しがたくさん出てきます。「僕」の思案の部分がそうで、先ほど引用した「刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国」というところなども、何となくイメージは湧くんですが、よく読むと「どういうこと?」と首をひねりたくなりませんか? 連想を染めるとは? 図案のような風俗とは? 他の連にも、「憂欝な方角を習慣してゐる」「白い季節を被つて寄り添ふてゐる」などの不思議なフレーズが見えます。

 絵画的な描写、とにかく感覚的な言葉たち。「僕」の頭の中で、故郷の風俗が、「刺青と蛇皮線などの聯想」という色で染められた図案となっているようにも思えます。図案といえば紅型も思い浮かびますね。

 でも、この連想とは、誰の連想でしょうか?

(中略)あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッタイ! と女は言つた
亜熱帯なんだが、僕の女よ、目の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生まれた僕らなんだと僕は思ふんだが、酋長だの度人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見たちが眺めるあの僕の国か!
 3連目と4連目には、「日本」という言葉が出てきます。はっきりとは書かれていませんが、素直に読めば、「僕の国=沖縄」でしょう。「アネッタイ!」という驚き方からすると、「僕の女」は沖縄人ではない「日本人」のようです。

「世間の既成概念」「世間の偏見」という直接的な言葉で、「日本」の沖縄に対する態度を強調していますが、一方で「あの僕の国か!」という表現からは、自分自身を含む沖縄という存在に対する複雑で微妙な感情が読みとれます。

 沖縄=刺青(「ハジチ」ですね)や蛇皮線や泡盛といった、ある意味ステレオタイプな連想とは、「日本人」の沖縄に対する既成概念または偏見といってもいいのかもしれません。偏見という名の連想を染めた図案としての、沖縄の風俗。ここまで来て、「図案」という言葉の持つ意味に気付きました。沖縄の風俗にまつわるイメージがあまりに2次元的、つまり平べったいから「図案」なのですね。立体的な「織物」ではなく。

 それでは、沖縄の風俗を代表する蛇皮線や泡盛ほかのキーワード自体が、ネガティブな意味合いで使われているかというと、必ずしもそうとは言えないような気がします。それは、次にとりあげる詩「沖縄よどこへ行く」を読んでもわかります。


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Posted by あゆ at 09:00│Comments(0)
 
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