2006年03月19日/ おぼえがき

聖域について(2)―心の看板

 話が少し戻りますが、私が危惧するのは、何か事件が起こったとき、何の疑いもなく自分と犯人とを別世界に置いてしまうことです。そのような態度、関心の持ち方は、どれだけ事件に怒っていても、他人事として見ているのと同じこと、というのが私の立場です。

 沖縄・八重山探偵団のびんさんが、昨日コメントしてくださったように、誰でもそれと知らずに「内なる御嶽荒らし」をしてしまうことはあるだろうと思うからです。

聖域について(2)―心の看板 例えば、私は育児の面でとくにそのことを実感します。子どものためを思って冷静に叱るはずが、忍耐が切れると、「自分の言うことをきかないから」「自分がイライラして」、手を出してしまうこともあります。相手のことを想うより先に、自分のことを解決しようとしてしまうのです。

 また、「しつけていないと思われると恥ずかしい」「人に迷惑をかけないような子にしないと」という気持ちが強すぎて、叱りすぎた(たいていはそれを通り越して「怒りをぶちまけすぎた」)、と後悔することもしばしばです。

(ちなみに、保護すべき存在を、保護する側の視点からのみ「きちんと」しようとするこのような心理は、目からウロコの琉球・沖縄史のとらひこさんが記事にされた、昨年の中城城跡における過度の御嶽整備を引き起こしたものとも通じるような気がします)

 遠い昔から、神と人との仲介者である神人の守ってきた御嶽は、地元の人にとってはもちろん、世界遺産になった今は世界中の人にとって大切な場所。そんな特別な場所を荒らすことは、ほかのどんなこととも比べられはしない、自分が犯人のような輩と一緒のはずがない、と思われる方もいらっしゃるでしょうか。

 私が思うには、そのように考える方は、自分の心の中の御嶽に「立ち入り禁止」の看板を立てて、それで満足しているだけです。

 心の中に看板を立てていないところには、ずかずかと上がりこんで、荒らしているかもしれない。 (つづく)

(写真: 首里城木曳門のそばで)


同じカテゴリー(おぼえがき)の記事

Posted by あゆ at 20:51│Comments(2)
この記事へのトラックバック
残念ながら今年も、6月23日の沖縄に飛べそうにありません。仕方がないので姿だけでも、6月22日沖縄に行きます。http://www.nhk.or.jp/historia/NHK総合テレビ、夜10時からの歴史番組...
6月22日、(地上波で)沖縄へ【沖縄・八重山探偵団】at 2011年06月20日 22:00
この記事へのコメント
トラックバックありがとうございました。

今回の事件は、ウタキそのものに目に見える「本殿」がないことも理由のひとつではないかと思います。そもそも聖地とはヒトの心がつくりだしたものなのですけれども。

目に見えるものが全てと思いがち現代の我々には、沖縄の人々が営々と受け継いできた「聖なるもの」に対する感覚、畏怖がないのではないでしょうか。

心ない犯人だけではなく、この問題は現代を生きる我々にも他人事ではないのかもしれません。
Posted by とらひこ at 2006年03月21日 10:59
とらひこさん、コメントありがとうございます。少し前の記事でしたが、ずっと引っ掛かっていました。

聖なるものに対する感覚のこと、本当にその通りだと思います。この問題に関する数々の記事を読んでいると、多くの人がそのことを危惧してはいるのですが、自身を例外視しているのでは(つまり、「自分は聖なるものに対する畏怖の念を忘れていないから、犯人とは違う」という立場)と感じられる記述も多々見受けられます。

そのような見解に違和感を覚えて、この記事を書くことにしました。この問題は他人事ではないことを、頭で知るだけでなく、実感することが、問題解決へ向かうひとつの道ではないかと思っています。
Posted by あゆ at 2006年03月21日 11:23
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。