2005年06月28日
人類館
『カクテル・パーティー』のときは、頭に浮かんだことをえいやっと書いて載せましたが、そのやり方だとやはりだらだらしてしまうので、もうちょっと取捨選択して載せることにしました(でもやっぱり時間はかかりましたが)。なお、事件そのものの参考文献はまだ読んでいませんので、今回は作品の感想に留めたいと思います。
調教師ふうな男、陳列された男、陳列された女。たった3人の登場人物なのに、とてつもなく色々なことが起こります。学術人類館、小学校の給食時間、飲み屋、取り調べ室、精神病院、戦時中の壕の中……目まぐるしく移り変わる場面や雰囲気に沿って、3人の役柄も次々と変わっていきます。あるいはその逆かもしれません。後半になるほど、映像のモンタージュのような印象を受けました。
ひどい扱いを受ける場面が多いながら、男女の会話はあっけらかんとしていて、昔の思い出を語ったり喧嘩をしたりするところには滑稽味さえ感じられます。大抵の場合は調教師が高圧的な役割で、陳列された男女が弱い立場にいるのですが、ところどころで「おや?」と首を傾げてしまう場面も。最後の皮肉な展開は、予想だにできませんでした(少なくとも私には)。
戦時中を描いた場面は、初めて聞くことばかりではないのに、やはり生々しい衝撃を与えるものです。今回この戯曲を読んで強く感じたのは、やはり言葉の力はとてつもないということでした。
私たちは、何でも中立的に、冷静に判断しようとするあまり、吐くようにして苦しみを語る人々の気持ちに対する想像力、そして語られている状況への想像力までも、失いつつあるきらいはないのでしょうか。
女 人間、誰にだって、話したくない事があるよ。誰にも聞かれたくない事があるよ。だから黙って、……あきらめて恥を忍んでいるんじゃないね。『沖縄文学選』に収録されているこの戯曲は、学術人類館という枠の中で、沖縄の戦中・戦後が再現される作品だと言えるでしょう。1976年、雑誌「新沖縄文学」33号に発表された本作は、78年に岸田國士戯曲賞を受賞しています。作者の知念正真(ちねん せいしん、1941-)は沖縄市生まれの劇作家・演出家で、他の作品には『コザ版どん底』(1986)、コザ版ゴドー』(1988)などがあります。
調教師ふうな男、陳列された男、陳列された女。たった3人の登場人物なのに、とてつもなく色々なことが起こります。学術人類館、小学校の給食時間、飲み屋、取り調べ室、精神病院、戦時中の壕の中……目まぐるしく移り変わる場面や雰囲気に沿って、3人の役柄も次々と変わっていきます。あるいはその逆かもしれません。後半になるほど、映像のモンタージュのような印象を受けました。
ひどい扱いを受ける場面が多いながら、男女の会話はあっけらかんとしていて、昔の思い出を語ったり喧嘩をしたりするところには滑稽味さえ感じられます。大抵の場合は調教師が高圧的な役割で、陳列された男女が弱い立場にいるのですが、ところどころで「おや?」と首を傾げてしまう場面も。最後の皮肉な展開は、予想だにできませんでした(少なくとも私には)。
戦時中を描いた場面は、初めて聞くことばかりではないのに、やはり生々しい衝撃を与えるものです。今回この戯曲を読んで強く感じたのは、やはり言葉の力はとてつもないということでした。
調教師 (中略)貴様は何ものだ? 言ってみろ! 言わねえのか、この野郎! さあ言え、貴様は何だ?取り調べ室の場面。女と喧嘩しているときに、自分に向かって言われた台詞を、男は調教師演じる刑事の前で繰り返します。この台詞のあと、男は堰を切ったように、戦時中の凄惨な光景を語り出します。自分の素性を、戦争体験という形で「吐く」のです。
男 ……に、人間……、
調教師 何ィ?
男 人間、誰にでも話したくない事が、あります。誰にも聞かれたくない事があります。
調教師 だから、何だ?
男 だから、諦めて恥を忍んで、黙っている訳です。
私たちは、何でも中立的に、冷静に判断しようとするあまり、吐くようにして苦しみを語る人々の気持ちに対する想像力、そして語られている状況への想像力までも、失いつつあるきらいはないのでしょうか。
2005年06月24日
沖縄語の入門
沖縄語の入門―たのしいウチナーグチCD 沖縄語の入門
西岡 敏/仲原 穣 著
白水社、2000年4月
ISBN: 4560005516/4560605513(CD)
沖縄文学を読んでいると、少なからずウチナーグチに出会います。地域によってかなり差もあるので、「これさえあれば大丈夫!」というわけではないですが、例えばこんな入門書があると便利です(本書で紹介されているのは首里方言)。私も実は、これも買ったのは発売当時なのですが、伊波普猷の著作や『沖縄文学選』を読み出してからようやく引っ張り出しました。
この本の特徴は、基礎が充実していること、言語学的に詳しく説明していることと言えるでしょう。方言キャスターの伊狩典子さんが監修なさっています。全体の3分の2は、例文とともに基本的説明に割かれていて、各課の最後には練習問題までついています。流歌、民謡、歌劇、組踊り、おもろさうしといった文化・芸能関連の章もあり、親切だなという印象を受けます。
ウチナーグチの基本は、ア・イ・ウの3母音のはずだけど、「~そーれー」とか「~でーびる」には「エ・オ」が出てくるのは何故? などといった素朴な疑問にも、答えてくれます(驚くほどあっさりした説明でしたが。私が知らなかっただけか)。
何だか回し者みたいな紹介になってしまいましたが、著者のお一人は大学の先輩なので、今回はある程度意図的に回し者を演じましょう(笑) この本とCDも直接買ったので、セットでちょっとお勉強してくださいました。今はご無沙汰しているので、このブログのことはご存知ないとは思いますが、この場を借りて改めて感謝したいと思います。
2005年06月23日
慰霊の日に
今日は早朝に雨が降ったらしく、キャンパスには白いもやがかかっていて、池のほとりの小さな森からは月桃のような甘い香りが漂ってきます。正午はまだ講義中なので、朝のその風景の中で、ひとり心の中で黙祷しました。
沖縄戦で亡くなった人のために祈りながら、他の戦争で亡くなった人、日常という戦争の中で亡くなった人、安らかに死を迎えた人、他人に命を絶たれた人、自ら命を絶った人……死というもののあり方について少し思いを馳せた朝でした。
沖縄戦で亡くなった人のために祈りながら、他の戦争で亡くなった人、日常という戦争の中で亡くなった人、安らかに死を迎えた人、他人に命を絶たれた人、自ら命を絶った人……死というもののあり方について少し思いを馳せた朝でした。
2005年06月22日
『人類館』を読みました
『沖縄文学選』収録の作品で、知念正真作の戯曲です。カクテル~の後、次は何にしようかなとパラパラめくっていたら、いつの間にか読み終えていました。これは、いわゆる「人類館事件」と呼ばれる実話を題材にとっています。人類館事件とは、1903年に大阪天王寺で催された第5回内国勧業博覧会にて、「学術人類館」なる見世物小屋が現れたことで、生身の人間が「展示」されたという非常にショッキングな事件です。この話は父から聞いておおまかに知っていたのですが、関連した作品があるのは知りませんでした。
まだ1度しか読んでいないので、もう少し読んでから感想を書こうと思います。今度は、できるだけ簡潔に……。
2005年06月18日
沖縄の古書店から
最近、ネットで取り寄せた本です。宜野湾にある南海書林という古書店のサイトから買いました。ここは、偶然検索に引っ掛かったおかげで初めて見つけたのですが、注文しやすいし、沖縄関連の古書が豊富なのでうれしかったです。何の検索で見つけたかというと、写真右に見えます、下門次男『続唐獅子の独語(シーサーヌドゥチュイムニー)』。この方とこの本を知ったのは、タイムスの連載「残さびらな島くとぅば」のこの記事でした(余談ですが、この記事も最近検索で拾ったものでした。てぃーだに「沖縄フォトブログ ちゅふぁーら!」という素敵な写真サイトがあるのですが、「ちゅふぁーら」ってどういう意味だっけ? と検索したら出てきたのです。めぐりめぐって、「ちゅふぁーら!」の製作者NIPPYさんに感謝!)。
まず「笑える詩集」というのに惹かれました。そして下門(しもじょう)は私の旧姓なので、ますます親しみを覚えたのでした。私の父も、「下門の次男」なんです。この方は屋号なので、おそらく親戚ではなさそうですが、何だか縁を感じて「読んでみたいな」と思っていました。そこで検索してみたところ、南海書林のカタログがヒットしたわけです。
送料の上限が500円なので、財布と相談してもう一冊選んだのが、大城貞俊『山のサバ二』です。これは、1997年に第1回沖縄史戯曲大賞を受賞した戯曲『山のサバニ~ヤンバル・パルチザン伝』の原作となった小説です。貞俊先生は高校の国語の先生だったので(残念ながら、私のいたクラスの担当ではありませんでしたが)、いつか読みたい、と思いつつここまで来てしまいました。先生、遅れてごめんなさい。
ところで題材はしばらく『沖縄文学選』から取ろうかと思うので、これらの感想はまだ先になりそうです。それでは、おやすみなさい。
2005年06月17日
カクテル・パーティー(3)
裁き、裁かれること
過去がどんどん遠のき、歴史の認識はますます抽象的になってしまう。あるいは同時代に生きていても、頭の中でしか物事を進めないために、理解が抽象的なままになってしまう――この作品の中にも、そんな場面があります。
ずっと平静を装っていた孫氏が、日本人2人(小川氏と「私」)への責任を追及するところで、私は中国での反日デモを思い出しました。カクテル・パーティーを続けてきた両国間のひずみがどんどん大きくなって、今このように噴出しているのかもしれない、と。
「『カクテル・パーティー』の読者は、作品世界を体験し、「私」と体験を共有することで、アメリカ統治下の沖縄を擬似体験することになる」と、②で書きました。文学作品によるこういった擬似体験が、実体験の代わりに、新たな視点を手に入れる鍵のひとつとなってくれるのではないでしょうか。文学作品に限らず、芸術なら何でもいいかもしれませんが、言葉のみの世界で何事かを体験するというのは、また違った意味を持つと私は思います。でもそれはまた別の話、別の機会に。ここまでおつき合いくださり、ありがとうございました。
(追記: 投稿時は「つづく」と書いたのですが、別の話になっているため、続きとしては書かないことにしました。カクテル・パーティーについての感想は、とりあえずこれで終わります。)
お国への償いをすることと私の娘の償いを要求することとは、ひとつだ。「私」は孫氏に、こう言います。この「お国への償い」とは、南京周辺で将校として兵隊を訓練していた「私」自身の罪悪感、つまり「日本人」としての罪悪感からの、中国への償いのことです。この論理については、著者自身がコラムで次のように明かしています。
そのうち、素朴な抵抗、批判を脱するのに『中国での日本兵』としての自己批判を絡ませようと考えたのは、大きな発見であった。単純な抵抗でなく、自分の過去をも裁いて、その先に米軍支配の不条理を裁く資格をえよう、と思いつき、これで小説になると考えた。(作家コラムより)裁きを求めるということは、裁かれるべき罪を自覚するということ。そうして断罪し合うことこそ、本当に腹を割ることであり、本物の親善を生むことになる――アメリカ統治下の不条理の中でもがく「私」が、自らの体験から得たこの真実は、いま沖縄の視点から発信すべき重要なメッセージのひとつではないでしょうか。あるいは広島、あるいは長崎の視点から。なぜなら、これらの地域の視点は(これらの地域の人々、とは言いません。内部にいなくてもその視点を身につけることも可能だと思うから)、戦争において被害者・加害者両方としての実感を持っているからです。もっとも、本当に実感を得るのは難しいことだと思いますが……とりわけ加害者としての実感は。
過去がどんどん遠のき、歴史の認識はますます抽象的になってしまう。あるいは同時代に生きていても、頭の中でしか物事を進めないために、理解が抽象的なままになってしまう――この作品の中にも、そんな場面があります。
親善というものが、彼らのなかで、かなり抽象的なものになっている、とお気づきになりませんか。告訴のための手助けをミスター・ミラーに断られた「私」に、小川氏はこう言います。しかし彼はまた、孫氏と口論する際に、次のように言われてしまいます。
なるほどあなたは、日本対中国の関係をアメリカ対沖縄の関係に当てはめて、ひとつの真実を示された。そして、そのときあなたは、日本が中国に対しておこなった好意を批判しているような態度を示された。しかし、私からみれば、あなたの理解は非常に抽象的だ。彼は孫氏に、「あなたは卑怯だ」と言い返します(引用だけでは、文脈がわかりませんね。どうぞ読んでみてください)。新聞記者で非常に頭の切れる小川氏には、知識はありますが、自らの負う罪についての実感はありません。小川氏は作品中のどんな事件にも直接は巻き込まれないので、悪く言えば、すべては他人事なのです。「私」は何も言えず、黙っています。
ずっと平静を装っていた孫氏が、日本人2人(小川氏と「私」)への責任を追及するところで、私は中国での反日デモを思い出しました。カクテル・パーティーを続けてきた両国間のひずみがどんどん大きくなって、今このように噴出しているのかもしれない、と。
だから私たちは甘やかされ、私たちは甘えた。「私」は、娘を通して事件の被害者となったことで、加害者の視点にも目覚めました。しかし、誰でもそのことを直接体験できるわけではありませんし、害は被らないに越したことはないのは言うまでもありません。私たちはどうすれば、少しでも実感をもって歴史を見ることができるようになるのでしょうか。
「『カクテル・パーティー』の読者は、作品世界を体験し、「私」と体験を共有することで、アメリカ統治下の沖縄を擬似体験することになる」と、②で書きました。文学作品によるこういった擬似体験が、実体験の代わりに、新たな視点を手に入れる鍵のひとつとなってくれるのではないでしょうか。文学作品に限らず、芸術なら何でもいいかもしれませんが、言葉のみの世界で何事かを体験するというのは、また違った意味を持つと私は思います。でもそれはまた別の話、別の機会に。ここまでおつき合いくださり、ありがとうございました。
(追記: 投稿時は「つづく」と書いたのですが、別の話になっているため、続きとしては書かないことにしました。カクテル・パーティーについての感想は、とりあえずこれで終わります。)
2005年06月16日
カクテル・パーティー(2)
体験させる形式
形式の面では、特異な文体に注意を引かれます。前章では、語り手が自分を指して「私」という一人称の語り、後章では、語り手が自分を指して「お前」という二人称の語りとなっています。後章はさらに、①でも少し言及しましたが、一部地の文が消えて戯曲の形式になっています。
一人称の場面では、語り手の「私」は作品内から読者へ語りかけています。つまり「私」と読者は向かい合っている形です。
二人称だと、語り手が自分自身を「語る私」と「語られる私」とに分裂させていることになるので、読者はまるで語り手の「私」がそばにいるかのような錯覚に陥ります。つまり、「私」と読者は並んで座っている形になります。
戯曲形式では、もちろんまた一人称に戻るのですが、前章の一人称と違うのは、「私は……と言った」と読者に向けた言い方は当然ながらせず、「私・あなた」という言葉が登場人物間で直接やりとりされていることです。そのことによって、読者はまるで自分がしゃべっているかのような感覚を覚えます。つまり、「私」と読者とが一体化した形です。
このような文体の組み合わせによって、語り手の「私」がどんどん読者に近づいてくる、という効果が生まれています。会話がまた面白くて、その点で全体的に戯曲のような小説だという印象も受けます。著者自身、作家コラムで「戯曲のキャリアが役に立ったと思う」と述べています。パーティーでの沖縄文化論や、後半の緊迫した言葉の応酬には、「何がどこまで言われるんだろう」と背筋を熱くしてのめり込んでしまいます。
作家コラムでも述べられていることですが、この作品は、緊迫感やテンポといった要素がかなり意識されています。それらは、どうやって読者を作品世界に引っぱってこようか、という工夫です。語り手が近づいてくる、作品に否応無しに引き込まれるということは、一時的にその作品の中で生きる、ということになると思います。作品世界の体験ができるということです。演劇や映画など、ビジュアルの要素が大きい芸術を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。『カクテル・パーティー』の読者は、作品世界を体験し、「私」と体験を共有することで、アメリカ統治下の沖縄を擬似体験することになるのです。 (つづく)
形式の面では、特異な文体に注意を引かれます。前章では、語り手が自分を指して「私」という一人称の語り、後章では、語り手が自分を指して「お前」という二人称の語りとなっています。後章はさらに、①でも少し言及しましたが、一部地の文が消えて戯曲の形式になっています。
一人称の場面では、語り手の「私」は作品内から読者へ語りかけています。つまり「私」と読者は向かい合っている形です。
二人称だと、語り手が自分自身を「語る私」と「語られる私」とに分裂させていることになるので、読者はまるで語り手の「私」がそばにいるかのような錯覚に陥ります。つまり、「私」と読者は並んで座っている形になります。
戯曲形式では、もちろんまた一人称に戻るのですが、前章の一人称と違うのは、「私は……と言った」と読者に向けた言い方は当然ながらせず、「私・あなた」という言葉が登場人物間で直接やりとりされていることです。そのことによって、読者はまるで自分がしゃべっているかのような感覚を覚えます。つまり、「私」と読者とが一体化した形です。
このような文体の組み合わせによって、語り手の「私」がどんどん読者に近づいてくる、という効果が生まれています。会話がまた面白くて、その点で全体的に戯曲のような小説だという印象も受けます。著者自身、作家コラムで「戯曲のキャリアが役に立ったと思う」と述べています。パーティーでの沖縄文化論や、後半の緊迫した言葉の応酬には、「何がどこまで言われるんだろう」と背筋を熱くしてのめり込んでしまいます。
作家コラムでも述べられていることですが、この作品は、緊迫感やテンポといった要素がかなり意識されています。それらは、どうやって読者を作品世界に引っぱってこようか、という工夫です。語り手が近づいてくる、作品に否応無しに引き込まれるということは、一時的にその作品の中で生きる、ということになると思います。作品世界の体験ができるということです。演劇や映画など、ビジュアルの要素が大きい芸術を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。『カクテル・パーティー』の読者は、作品世界を体験し、「私」と体験を共有することで、アメリカ統治下の沖縄を擬似体験することになるのです。 (つづく)
2005年06月15日
カクテル・パーティー(1)
カクテル・パーティーとは?
大城立裕『カクテル・パーティー』を読み終えました。短編なのに(もしくは短編だからこそ)、ぎっしりと中身が詰まっていて、通読・部分読を重ねてようやく放心状態から逃れた気がします。書けない気がするけどとりあえず感想を、と書き始めたら、明日は講義がないのをいいことに徹夜してしまい、3000字近く書いたところで集中力がアウト。長いので切って載せます。
アメリカ人のミスター・ミラーの呼びかけで、日本人の小川氏、中国人の孫氏とともに、4人で中国語会話の集いを持つ「私」。彼らは一見親しくつき合う知識人同士であり、「私」と小川氏と孫氏は、ミスター・ミラー主催のカクテル・パーティーにそろって招かれます。ところが事件が起きてから、この親しさは仮面の親善なのだと「私」は悟ります。その直接のきっかけは、妻が日本兵に乱暴された体験を孫氏に打ち明けられたことでした。孫氏は、「われらの敵は日本軍閥であって日本の人民大衆ではない」という蒋介石の演説を持ち出して、中国人はその言葉通り、徳を以って怨に報う努力をしてきた、と言います。つまりそれは、日本人の前で日本兵の罪を口にしないことでした。孫氏がここで、その「努力」という仮面を一旦脱いで自らの体験を告白するということは、「私」もその仮面をかぶるべきだ、と要請する意味を持っています。つまり、孫氏が日本人に取り続けた態度のように、腹では泣きながら、侵略者とも笑顔でつき合い続けるしか生きる道はないのだと。
この「親善の論理」は「仮面」である、と「私」は断固受け付けません。それがわかるのが、最初に引用した台詞です。「私」にとってカクテル・パーティーとは、臭いものにふたをしてますますひどい臭いにしてしまう、仮面の親善にほかならないのです。孫氏の選んだ生き方もまた、偽りのカクテル・パーティーでした。 (つづく)
大城立裕『カクテル・パーティー』を読み終えました。短編なのに(もしくは短編だからこそ)、ぎっしりと中身が詰まっていて、通読・部分読を重ねてようやく放心状態から逃れた気がします。書けない気がするけどとりあえず感想を、と書き始めたら、明日は講義がないのをいいことに徹夜してしまい、3000字近く書いたところで集中力がアウト。長いので切って載せます。
このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが、最も必要ではないでしょうか。私が告発しようとしているのは、ほんとうはたった一人のアメリカ人ではなく、カクテル・パーティーそのものなのです。沖縄人の「私」が基地のカクテル・パーティーに招待されている間に、「私」の娘はアメリカ人に暴行を受けていた――アメリカ統治下の沖縄人の置かれ得る、最も皮肉な状況が描かれた作品。当時の不平等な裁判制度に憤り、泣き寝入りしかけながらも、最終的に「私」は告訴を決意します。しかしこの物語は、「アメリカに憤る沖縄」の図を単純に描いただけのものではありません。
アメリカ人のミスター・ミラーの呼びかけで、日本人の小川氏、中国人の孫氏とともに、4人で中国語会話の集いを持つ「私」。彼らは一見親しくつき合う知識人同士であり、「私」と小川氏と孫氏は、ミスター・ミラー主催のカクテル・パーティーにそろって招かれます。ところが事件が起きてから、この親しさは仮面の親善なのだと「私」は悟ります。その直接のきっかけは、妻が日本兵に乱暴された体験を孫氏に打ち明けられたことでした。孫氏は、「われらの敵は日本軍閥であって日本の人民大衆ではない」という蒋介石の演説を持ち出して、中国人はその言葉通り、徳を以って怨に報う努力をしてきた、と言います。つまりそれは、日本人の前で日本兵の罪を口にしないことでした。孫氏がここで、その「努力」という仮面を一旦脱いで自らの体験を告白するということは、「私」もその仮面をかぶるべきだ、と要請する意味を持っています。つまり、孫氏が日本人に取り続けた態度のように、腹では泣きながら、侵略者とも笑顔でつき合い続けるしか生きる道はないのだと。
ミラー 二つの国民間の親善といったって、結局は個人と個人ではないか。憎しみにしたってそうだ。一方で憎しみの対決がある。それがいくつもある。しかし他方でいくつもの親善がある。それをわれわれはできるだけ多くつくろうとする。物語の後半、核心に迫る場面になると、地の文は消えて会話だけの戯曲の形式になります。ミスター・ミラーのこの台詞のあと、「私」は「仮面だ」と言い放ちます。ミスター・ミラーも孫氏と同じく、憎しみと親しみを分けています。一方に憎しみがあり、他方に親しみもある。憎しみを忘れて、たとえうわべだけでも親しくする努力をするべきだ、というのが2人の意見です。ただし、日本軍への恨みを抱える孫氏の言葉は、諦念とも言える悲壮な決意となりますが、ここに引いたミスター・ミラーの言葉は、この文脈では完全な開き直りとして虚しく響くばかりです。
この「親善の論理」は「仮面」である、と「私」は断固受け付けません。それがわかるのが、最初に引用した台詞です。「私」にとってカクテル・パーティーとは、臭いものにふたをしてますますひどい臭いにしてしまう、仮面の親善にほかならないのです。孫氏の選んだ生き方もまた、偽りのカクテル・パーティーでした。 (つづく)
2005年06月13日
東村のコーヒー屋さん
茶飲み話を。シマウタ37.6度さんを久々にのぞいてみると、
「沖縄にコーヒーの花が咲く」「やんばるに咲く珈琲ぬ花@RIK版」という記事を見つけました。おっこれは、と思って見てみたら、やはりそこで紹介されていたのは……
HIROコーヒーファーム! 沖縄に帰ったら、家族で必ずと言っていいほど訪れるコーヒー屋さんなのです。喫茶店、というよりも本当に「コーヒー屋」という感じ。なぜならお店の裏にコーヒー農園があって、豆から自家製だからです。
つつじ園よりももっと北、東村のはずれまで来ると、国道70号線沿いにお店が現れます。ごろごろした広場に建物が3つあって、1つがお店の主、HIROさんとご家族の住んでいらっしゃるお家……と書きかけて、よくわからないことに気付きました。何となくそう思っていたけれど、違うかもしれません。まあとにかく、コーヒーなどのメニューを用意するためのメインの建物。そしてあとの2つが客用の小屋です。屋根はありますがほとんどオープンで、晴れている日は本当に気持ちがいいです。
私は実は、コーヒーは普段あまり飲まないんですが、ここのコーヒーは本当に美味しいと感じました。HIROさんをはじめ、お店の方々もとても気さくに接してくださいます。おすすめのお店です(ちなみに、親戚でも、回し者でもありませんよ!)。馴染みのお店が紹介されていたので、嬉しくなって話題にしてみました。
「沖縄にコーヒーの花が咲く」「やんばるに咲く珈琲ぬ花@RIK版」という記事を見つけました。おっこれは、と思って見てみたら、やはりそこで紹介されていたのは……
HIROコーヒーファーム! 沖縄に帰ったら、家族で必ずと言っていいほど訪れるコーヒー屋さんなのです。喫茶店、というよりも本当に「コーヒー屋」という感じ。なぜならお店の裏にコーヒー農園があって、豆から自家製だからです。
つつじ園よりももっと北、東村のはずれまで来ると、国道70号線沿いにお店が現れます。ごろごろした広場に建物が3つあって、1つがお店の主、HIROさんとご家族の住んでいらっしゃるお家……と書きかけて、よくわからないことに気付きました。何となくそう思っていたけれど、違うかもしれません。まあとにかく、コーヒーなどのメニューを用意するためのメインの建物。そしてあとの2つが客用の小屋です。屋根はありますがほとんどオープンで、晴れている日は本当に気持ちがいいです。
私は実は、コーヒーは普段あまり飲まないんですが、ここのコーヒーは本当に美味しいと感じました。HIROさんをはじめ、お店の方々もとても気さくに接してくださいます。おすすめのお店です(ちなみに、親戚でも、回し者でもありませんよ!)。馴染みのお店が紹介されていたので、嬉しくなって話題にしてみました。
2005年06月12日
現代版組踊「大航海レキオス」、見たい!
舞台裏ブログでも話題の、現代版組踊「大航海レキオス」。なんと東京にも来てくれるんですね! beats21なるウェブマガジンでの特集や、演出の平田大一さんのインタビューなど色々読んでいたら、是非見てみたくなりました。ちょうど沖縄に帰ろうと思っていた時期なのですが、調整できるといいな。
この舞台の音楽は、バンドによる生演奏だそうです。平田さんはインタビューの中で、バンドを「地謡衆」と位置付け、この舞台はミュージカルではなく、「いわゆる物言う踊りとしての組踊」なのだと言います。演ずる人が歌わない、というのは、能や歌舞伎と一緒ですね。組踊の形式的なことを確認したくて、ちょっと検索をかけてみたら、県の主宰するネット上の本棚、Wonder沖縄に組踊のページがありました。美ら島物語の記事も参考になります(ちなみに取材と文は、現在平田さんのTAO Factoryで広報を担当なさっている高橋百合香さんです)。
西洋のオペラやミュージカル、京劇など中国の演劇では、俳優さんが歌いますね。どんな過程で、俳優が歌う劇と、歌わない劇ができたんだろう? ふと疑問に思いました。折りをみて調べたいと思います。
組踊も、当初は中国の影響もあって演者が歌っていた、という記述はどこかで目にした覚えがあります。でも、なぜ歌わなくなったのかという事情については、まだ耳にしたことがありません。どういう問題があったのでしょうか。個人的には俳優さんが歌う劇の方がやや好みなので、「俳優の歌う組踊」ができたら是非見たい、いや聴きたいなあ。
この舞台の音楽は、バンドによる生演奏だそうです。平田さんはインタビューの中で、バンドを「地謡衆」と位置付け、この舞台はミュージカルではなく、「いわゆる物言う踊りとしての組踊」なのだと言います。演ずる人が歌わない、というのは、能や歌舞伎と一緒ですね。組踊の形式的なことを確認したくて、ちょっと検索をかけてみたら、県の主宰するネット上の本棚、Wonder沖縄に組踊のページがありました。美ら島物語の記事も参考になります(ちなみに取材と文は、現在平田さんのTAO Factoryで広報を担当なさっている高橋百合香さんです)。
西洋のオペラやミュージカル、京劇など中国の演劇では、俳優さんが歌いますね。どんな過程で、俳優が歌う劇と、歌わない劇ができたんだろう? ふと疑問に思いました。折りをみて調べたいと思います。
組踊も、当初は中国の影響もあって演者が歌っていた、という記述はどこかで目にした覚えがあります。でも、なぜ歌わなくなったのかという事情については、まだ耳にしたことがありません。どういう問題があったのでしょうか。個人的には俳優さんが歌う劇の方がやや好みなので、「俳優の歌う組踊」ができたら是非見たい、いや聴きたいなあ。
2005年06月11日
沖縄文学選
沖縄文学選―日本文学のエッジからの問い岡本 恵徳/高橋 敏夫 編
勉誠出版
2003年4月
ISBN: 458509041X
ここから手っ取り早くテキストをいただこう、という怠け心で注文した本です(しかも古本で)。まだパラパラとしかめくっていないので、評価の★マークはつけていません。
もとは大学生向けのテキストとして編まれたもので、沖縄文学文献案内や沖縄文学略年表などの史料もついていて便利。研究者による解説も豊富です。
内容は、沖縄文学の近代/アメリカ統治下の沖縄文学/復帰後の沖縄文学/沖縄文学の挑戦、という4部構成。それぞれのカテゴリーの中で、詩・小説・戯曲などジャンル別に作品が掲載されています。作家自身による短いエッセイ「作家コラム」もあり、大城立裕、又吉栄喜、目取間俊、崎山多美の4氏(コラム掲載順)が書き下ろしています。
芥川賞を取った有名な作品も、残念ながら今では入手しづらいので、こんなアンソロジーはとても便利ですね。沖縄・八重山探偵団さんも講義(ゼミかも)で使っていらっしゃるそうです。私にもレポートの課題をくださるそうです。単位もくださいね(笑)
いま、大城立裕『カクテル・パーティー』から読んでいるところです。
2005年06月10日
沖縄歴史物語
沖縄歴史物語伊波普猷
平凡社ライブラリー
1998年7月
ISBN: 4582762522
★★★★★
『沖縄歴史物語―日本の縮図』、とりあえず全て読み終えました。あらためて、どんな本なのかを簡単に説明することにします。
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「沖縄学の父」伊波普猷(1876-1947)による、沖縄に関する6つの論文を集めたアンソロジー。標題作の「沖縄歴史物語―日本の縮図」ほか、付録「クヮイニャをめぐって―沖縄文芸史考」「琉球人の祖先に就いて」「琉球史の趨勢」「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」「沖縄人の最大欠点」が収められている(なお、標題作以外は『古琉球』にも見える)。
絶筆となった「沖縄歴史物語―日本の縮図」は、沖縄の歴史の俯瞰図である。伝説の時代から現代に到るまでの、沖縄の波瀾万丈な運命が描かれている。上世史と中世史は書き下ろしで、近世史は著者が昭和3年にハワイ・北米で行った講演「沖縄よ何処へ」がもとになっている。昭和22年。
標題作の付録として位置付けられた「クヮイニャをめぐって―沖縄文芸史考」は、口承文芸の起源と発達の話を軸とした、「沖縄文芸史のアウトライン(結びの文より)」。各地に伝わる口承文芸同士の関わりのほか、諺・琉歌・組踊の発生にまで話題が及ぶ。昭和21年。
「琉球人の祖先に就いて」は、主に言葉を分析することで、琉球諸島に住み着くこととなった人々の祖先について考察をめぐらす論。言語学を修めた著者の本領が発揮されており、色々な言葉の語源や由来となった伝説などが記されていて興味深い。明治39年。昭和17年改稿。
「琉球史の趨勢」は演説の原稿で、羽地按司尚象賢・蔡温・宜湾朝保の3人の政治家を軸に展開される琉球・沖縄史概論。沖縄人は先祖から受け継いだはずの個性をもっと発揮できるはず、という論点から、為政者や教育家へ問題提起をしている。明治40年。昭和17年改稿。
「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」は、社会の情勢を進化論的な視点から見た興味深いエッセイ。薩摩の侵攻から廃藩置県に到るまでの沖縄の状況が、フジツボに喩えられている。波が引いて(=廃藩置県)困ったフジツボに意志教育を、と訴えかける。明治42年。昭和17年改稿。
「沖縄人の最大欠点」は、3ページ弱の短いエッセイだが、著者がこのテーマにどんなに関心を持っていたかは、「沖縄歴史物語」を読むとわかる。ここに現れた主張がほぼすべて、その迫力を増して再び顔を出している。これもまた、沖縄の教育家への嘆願書でもある。明治42年。
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かなり乱暴にまとめてしまいました。全部の論を読んでみると、「沖縄人の最大欠点」だけでなく、標題作以外の4つの内容もすべて標題作に盛り込まれていることがわかります。それにしても、『沖縄歴史物語』中の近世史の記述は、一段と激しかったです。なるべく距離をおいて読もうとするのですが、涙を抑えることしばしばでした。何に対しての涙なのでしょうか。自分でもまだよくわかりませんが、確かなことは、筆を進める著者の胸中が痛いほど伝わってきたということです。
この本は残念ながら現在品切れとなっています。重版されるといいのに! ちなみに、私の愛用しているオンライン古書データベースでは、何冊か見つかりました。ご参考までに紹介します。→ 日本の古本屋 スーパー源氏
色々と書き留めておきたいことは出てくるのですが、また次の機会に譲ることにします。長い覚え書きにお付き合いくださってありがとうございました。
2005年06月07日
沖縄歴史物語―雑考
『沖縄歴史物語』、ようやく標題作の半ばほどまで読みました。沖縄の歴史についても教科書的な知識しかないままに過ごしてきた私ですが、史料を丹念に読み解いてみせる伊波普猷の世界に浸っているうちに、ほぼ初めて、沖縄の歴史を面白いと感じています。「ほぼ初めて」なんて言い訳がましいですが、「初めて」というには何だか身近すぎて、こんな感じなのです。恥ずかしながら、阿麻和利や護佐丸といった超有名人も名前くらいしか知らなかったので、今回ようやく調べたのでした。
沖縄の歴史を200ページに収めているので、量的には概説と言って差支えないと思うのですが、この概説が単なる水割りではなく、とてもスリリングなのです。伊波普猷を読んだことのなかった私にとって、書かれていることが新鮮なのはもちろん、端折られている部分も、かえってそこを調べたくなるという、好奇心の呼び水のような役割を果たしています。
叙述の手法は、沖縄・日本・中国の史料を豊富に引用しつつ、同時代人の論も参照しながら、自説を前面に出すという論文の手法です。決して易しいとは言えないのですが、上に書いたような好奇心の呼び水がたくさんあり、根気強く読むとどんどん味が出ます。まるでスルメのようです。
味のあるひとつの要因は、自説を思い切りよく展開しているところと言えるかもしれません。学会などのアカデミックな場に向けたものではないので、そうしたのでしょうか。ひとつ、印象的だった文を引用しておきます。
まずはこれまでの感想を、主に形式の面から書き留めてみました。続きは全部読んでから書きたいと思います。いま、ようやく尚円が出てきたところです。
沖縄の歴史を200ページに収めているので、量的には概説と言って差支えないと思うのですが、この概説が単なる水割りではなく、とてもスリリングなのです。伊波普猷を読んだことのなかった私にとって、書かれていることが新鮮なのはもちろん、端折られている部分も、かえってそこを調べたくなるという、好奇心の呼び水のような役割を果たしています。
叙述の手法は、沖縄・日本・中国の史料を豊富に引用しつつ、同時代人の論も参照しながら、自説を前面に出すという論文の手法です。決して易しいとは言えないのですが、上に書いたような好奇心の呼び水がたくさんあり、根気強く読むとどんどん味が出ます。まるでスルメのようです。
味のあるひとつの要因は、自説を思い切りよく展開しているところと言えるかもしれません。学会などのアカデミックな場に向けたものではないので、そうしたのでしょうか。ひとつ、印象的だった文を引用しておきます。
これで見ると、奈良朝の末頃に、「おきなは」が島の汎称になっていなかったことは、火を観るよりも明らかで、従ってその頃、この島にいわゆる天孫氏の王朝が樹立されていた、と考えるのは、空想に近い。 ―伊波普猷 『沖縄歴史物語』今風に言うなら(?)、「『中山世鑑』斬り」ですね。「火を観るよりも明らか」「空想に近い」といった言い回しが、悪く言えば少々乱暴でもあり、でもそれだからこそ読者にガツンと衝撃を与えてくれます。ほかにも、「……と考える向きもあるが、これは後世を以って往時を類推した思い付きに過ぎない」「……と速断する向きもあるが、しかしそれは一種の思い付きに過ぎず……」とバッサバッサと斬っています。紙面の都合上なのか、批判された説は往々にして引用さえされません。
まずはこれまでの感想を、主に形式の面から書き留めてみました。続きは全部読んでから書きたいと思います。いま、ようやく尚円が出てきたところです。
2005年06月03日
今読んでいる本
伊波普猷『沖縄歴史物語―日本の縮図』を読んでいます。東京に来たばかりのころに買って7年も積読中だったのを、本棚から引っ張り出してきました。買っただけで満足していたのですが、読み始めるとどんどん引き込まれて、早く読んでおけば良かったなーという気分です。詳しくは後ほど(いつ読み終えるかな?)!
2005年06月01日
第1回おきなわ文学賞
沖縄県文化振興会:
「第1回 おきなわ文学賞」作品募集要項
5月24日付 沖縄タイムス:
「おきなわ文学賞」創設/県文化振興会
5月27日付 琉球新報:
若者に光 「おきなわ文学賞」創設 11月に入選作決定
こちらでも取り上げましたが、新しい文学賞ができるということです。もうご存知の方も多いことでしょう。敷居のあまり高くない、というと失礼な表現かもしれませんが、挑戦しやすそうな印象を受けました(漫画にはいまひとつ納得いきませんが)。審査委員長の大城立裕氏も、「若い書き手たちの欲求不満の解消になるだろう」(5月27日付 琉球新報)とおっしゃっていますね(笑) 入選作品集の刊行も年内に予定されているようで、何だか楽しみです。
「第1回 おきなわ文学賞」作品募集要項
5月24日付 沖縄タイムス:
「おきなわ文学賞」創設/県文化振興会
5月27日付 琉球新報:
若者に光 「おきなわ文学賞」創設 11月に入選作決定
こちらでも取り上げましたが、新しい文学賞ができるということです。もうご存知の方も多いことでしょう。敷居のあまり高くない、というと失礼な表現かもしれませんが、挑戦しやすそうな印象を受けました(漫画にはいまひとつ納得いきませんが)。審査委員長の大城立裕氏も、「若い書き手たちの欲求不満の解消になるだろう」(5月27日付 琉球新報)とおっしゃっていますね(笑) 入選作品集の刊行も年内に予定されているようで、何だか楽しみです。





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